2007.5.2 世界文学全集 企画発表会での発言
なぜいま『世界文学全集』か、たぶんここにいらっしゃる年代の方々は、昔『世界文学全集』というものがあって、それぞれの文学の基礎を作ったということを覚えていると思うんです。しかし、そういう時期が去ってから幾久しくて、最近ではほとんど見かけません。企画としてもないと思います。それを何故いまになってもう一度やるのか。
僕もあらためて世界文学全集という、この非常に日本的な出版界の制度というかシステムはなんだったのか、今回いろいろと考えたんですが、ひとつには日本の近代文学、明治以降の文学がやはり西洋を基礎として、そこで出来上がった近代の、もっぱら小説を中心とする文学を学びつつ、それを日本の社会に対して応用してきた。その意味では確かに後発の文学でした。したがって僕たちは学ぶ姿勢がたいへん強かったと思うんです。
つまりむかしの全集の柱になったのはたとえばスタンダールであり、エミリー・ブロンテであり、ドストエフスキーにトルストイ……。中原中也の詩にありましたね、ドスちゃんかトルちゃんかって。そういうふうに、まずそれを読むことから始まるのだとみんなが思い、必ずしも文学を志す人だけでなく、とりあえず文学で教養を身につけようという人たちはそこから始めたんです。そのために見繕ってキットを用意した。
みんな健気にそれで学んだんです。しかし最近になって、みんな健気に学ぶよりはもっと自分勝手に楽しく読めばいいじゃないかという風潮になりまして、それはもちろん、むりに「お勉強」で本を読むことはないんですが、今度は、何を読んでいいのかわからない。ベストセラーは次々に出るし、手を出してはみるけれど、1年経つとみんなが忘れている。
そういうとき、本当はもうちょっと文学というのは手応えがあるものだったんじゃないか、もうちょっとあとに残るものではないのか。仮に教養主義的な「お勉強」で始めたとしても、これは面白いと気がついてそこから先は次から次へと読みふける、そういう癖が身につく――僕は読書というのは癖である、読書癖という性癖であると書いたことがありますが――そういう入り口としてかつて世界文学全集はたいへん役に立っていた。それをちょっと思い出してみたい、そういうことがまずひとつです。
先ほど、日本の文学は明治以降、西洋の文学をお手本にして、それを日本に応用するかたちで伸びてきたと言いましたが、僕の場合はまさにそのパターンをそのまま踏襲しています。もっぱら翻訳物の文学を読んで、あまり鴎外や漱石は知らないまま、ましてや戦後の文学はほとんど知らないまま今に至っていますので、そういう意味で自分にとって翻訳文学は非常に切実で、大事なものであったと痛感します。
文学全集について言えば、自分の世界観の最初の基礎になったのは、小学生のときに創元社の『世界少年少女文学全集』というものがワンセット、毎月うちに来ることになりました。これで、「そうか、世の中はこういうふうにできているんだ」と思ったんです。文学全集が世の中だっていうのも変なんですが、僕はそう思ったんですね、本当に。これを読んでおけば、ちゃんとした人間になれるんだと思ったんです。もちろんそのあとはいろいろ揺らぎましたけれど、一番最初がそれでした。
今になってふり返ってみると『ロビンソン・クルーソー』を訳していたのが吉田健一さんだったり、錚々たる訳者だったんですが、子供はそういうことはまったく気にせずにとにかく面白い本に飛びついて、白地図に色を塗っていくようなかたちで自分の世界観を作っていった。そのあと筑摩書房の『世界文学大系』という、大きな、いささか権威主義的な、作家論まで後ろについたようなシリーズがうちに揃うことになって、これで次の段階を埋めました。
そのあとで河出書房の通称「グリーン版」と言われている「世界文学全集」にふれます。もう一通り読んでいますから、今度は落ち穂拾いをするわけです。新しいもの、読んでいないものが出たら読む。ヘンリー・ミラーがある。『南回帰線』でしたか。それからロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏』の『ジュスティーヌ』と『マウントオリーブ』の入った巻があった。
実は僕は、20歳ごろにその『ジュスティーヌ』と『マウントオリーブ』を読んだところから、人生がどんどん軌道をそれていきます。ロレンス・ダレルの弟が書いた本を訳したんですが、自分の名前が付いた刊行物としてはそれが最初になります。訳したあとでギリシャに行って、三年ほど暮らしました。ダレル一家のあとを追っかけていったんです、同じようなことをしようと思って。つまり外に出る、国境線を越えるとなにかが変わる、それがすごく面白い、それを文学に作っていく――まったくロレンス・ダレルのやり方を習うようにして今まで生きていて、したがってたったいま私は現在フランスに住んでいます。
ロレンス・ダレルというのは非常に変な男で、インド生まれのイギリス人でして、大学生のときにほんのしばらくイギリスにいて、それから外に出て、以来「あの国は大嫌いだ」と言って死ぬまでイギリスに戻らなかった。死ぬまで二十何年かを暮らしたのが南仏のソミュエルという街なんですが、二週間前たまたま近くにいたので、車で行ってみました。ふだん誰かの住んでいたところに行くとか、文学散歩のようなことはしないんですが、さすがにダレルの所は見ておこうと思って、この人とともに歩んだ人生だったなあと(笑)。その一番最初が、河出のグリーン版の全集だったなということをしみじみ思いました。
もうすこしまじめにこの全集の話に戻ると、翻訳を通じて世界の文学を学んで、それによって自分たちの文学的表現を磨いていくということをずっとやってきたのですが、その結果、いまの日本文学は非常に国際的になりました。国際的というのは、日本人が考えていること、日本人の生き方が、ある程度の普遍性を持って、ほかの世界の土地でも通用するようになった、読まれるようになったということです。簡単にいえば、翻訳がどんどん出て、日本人の作家がたくさんのファンを持つようになった。それはひとつには世界全体の人の行き来が多くなって、文化の行き来も多くなって、まぁ一種のグローバリゼーションなんでしょうけど、お互いのあいだが近くなったということがあります。
それによって日本人の暮らし方と、たとえばアメリカ人、あるいはインドネシア人、あるいはロシア人のあいだに共有のものが多くなってくる。しがたって理解しやすい。エキゾティシズムでなくひとつの例としてほかの国の人生をたどることができる。それが喜びである。そういう全体の風潮の中に、たとえばいまの村上春樹、よしもとばなな、その他様々な作家たちが海外で広く読まれているということの一番の土台があると思います。
その意味で我々が国際化したのと同じように、日本の方も国際化して、世界各国の人々の暮らし、生き方、考え、思想、それを表現する小説を、非常に身近な思いで読むことができる。海外でももう、三島と川端ではない。特別な日本、日本ブランドを付けなくても読まれるということは、お互いのあいだが近づいたということだろうと思います。
今回僕は「世界文学全集」というものに、こんな面白いことはないと喜んで飛びついてやってきましたが、ふと「日本文学全集」だったらどうだったろう、と考えてみると、これはなんのアイディアもない。とても僕にはできない。まったく手も足も出ない、というのが結論です(笑)。それは僕の生き方のゆえであって、もしもどなたかが日本文学全集をやってみるというのであれば面白いとは思いますが、僕自身には見当もつかない世界であるということに気がつきました。
さてこの全集、まず、なぜ全集なのか。
全集というのは数を限ります。今回は24冊、作品の数にすれば36点ありますが、とりあえず24冊出すということを宣言しました。では、翻訳の名著を集めた叢書(シリーズ)とはどこが違うのか。
たとえば河出には「Modern&Classic」という翻訳文学の叢書があります。あるいはここ何年かで非常にヒット率が高いものでいえば新潮社に「クレスト・ブックス」というとてもいい叢書があります。
そういうのと全集はどこが違うのか。その違いをどう説明するべきかといろいろ考えました。
まず、数を限ることで、選ぶ方は密度を高めるというか、捨てるものが当然出てきます。捨てざるを得ない。実際20世紀前半以前のものは、ほとんど僕は捨ててしまいました。ここにあるのはほぼ20世紀後半から今に至るものです。
そういうところでひとつの物差しを、真剣に用意しなければいけない。叢書の場合は1冊ずつがあるレベルに達しているかだけを判断すればいいんです。買い手の方もそれが自分の趣味に合っているか、一定のレベルに達しているかで買うか買わないかを選べばいい。ですから「Modern&Classic」にしても「クレスト・ブックス」にしても、全部買いますという人はある意味では非常に特殊なファンということになる。
むかし野間宏さんが随筆に、白水社の「新しい世界の文学」と岩波書店の「古典文学大系」の2つだけをこの半年読んできたと書いておられて、そういう読書の仕方もあるなあと思い、またあの時期に非常に良いものが多かった白水社の「新しい世界の文学」という叢書の意味をあらためて考えたんですが、それとも違う。つまり数を限ってひとつの批評基準を立てた上で、24に絞っていくところで僕は何かひとつ、創造的なことをしたような気がします。それはやはりその密度感のなせるものでしょう。
それから読者に対して、今度はこういうのを出します、今度はこれです、その次はこれです、と1冊ごとに買う買わないの判断をお願いするのではなくて、いささか傲慢ながら最初から「これは全部面白いはずです。セットです。1冊抜いても全体の構成がゆがむような、カチッとできあがった建築物であります」というような、少なからず強気の紹介の仕方をする。その点において――つまり内部の統一感という点においてこれは全集と呼ばざるを得ないだろうと思うわけです。
もちろん、24巻ものすごく売れてしまったら、第3期もう12巻出そうかって言い出すかも知れない(笑)。しかし今のところそれは考えていません。そういういい加減な姿勢ではなくて、いまはこの24巻をカチッと仕上げて読者の手にお渡しすることに、専念するつもりでいます。
その上で、なぜ古いものを捨ててしまったのか。
古典がいかに大事であるか、それはわざわざ僕が説明を繰り返すにも及ばない大原則です。しかしながら古典については、もっと広くふわっと広げて置いておいて「お選びください」ですむと思うんです。
昔の教養主義だとシェイクスピアは『ハムレット』と『夏の夜の夢』と『マクベス』を読んでおかねばならない、と言うことができたと思うんですが、いまはシェイクスピアを読むにあたって、僕はその時々のきっかけと興味でどれから読んでもいいしどれを読んでもいいと思います。
たとえば、映画化されたシェイクスピア。というと、僕が思い浮かぶのははるかむかしの『ロミオとジュリエット』だったりしますが、2、3日前に見た中国映画の原作が『ハムレット』でした。なんだか不思議なすごい大活劇になっていたが、どうやらハムレットらしい。そういうものをきっかけにしてもシェイクスピアに行くことができる。
しかしもうすこし真剣に、あえて言えば日々の役に立つ、いまの自分たちの生き方に直接ビンビン響いてくる本が読みたい、そういう小説が読みたいとしたら、やはり近い時代のものでしょう。いまアメリカの若い連中が何を考えているか。あの戦争のあとでベトナム人は戦争について何を考えたか。日本でたとえば大岡昇平が出たように、あの戦争を書いたベトナム作家が誰なのか。
そういう今的な関心と、それからもうひとつ。僕はこの全集は、これから文学を目指す人たち、文学に勤しむだけでなく、できれば書き手になりたいと思っている人たちを支援するキットでありたいと思っています。そういう意味も含めてすぐに役に立つ、読めばびしばし利いてくる、となればやはりこの50年の世界でしょう。第2次大戦が終わって、それからいろんな事が変わって、もう冷戦状態もなくなって、いまこういうところにきている――それに直結するようなものをひと揃い並べてみたい、と思っています。
いくつか例外があります。たとえば『ハワーズ・エンド』が入っている。また、フォークナーが入っている。それは僕自身の気持ち、思い、思想としてこれは今でも役に立つ、というよりこれが始まりというか、始まりの始まりというか、ここから始めていまに至るまでをカバーできるような揃え方をしたい、その始点として意味があるのでこのふたつは入れました。
その他ひとつひとつについては説明をこの場ではしませんが、やはり新しいもの、しかし新しすぎないもの、です。新刊が出てすぐのものを全集に入れるというのもね……価値がかたまるまでのある年月がありますから。その年月のフィルターを抜けずに残ったもの、しかしなるべくいまに近いもの、というのが選定の基準です。
リストを作りながら考えていたのは、人はいまブックリストを求めている、ということです。書評が非常に盛んです。本はたくさん出る。しかし本というのは表紙とタイトルと作者の名前が外側にあるだけで、中は読まなければわからない。しかも読む前にお金を払う。信用して払うわけです。つまらなかったら損をする。そういう真剣勝負です。だからそこに何らかのガイダンスが欲しいというのが読者側の当然の思いであって、それに対して書評がたくさん書かれています。僕自身ずいぶん書評をしてきました。その中で人はブックリストを求めているということを強く感じたわけです。
したがってこれは作家としての僕の仕事である以上に、書評家としての仕事の延長にあると思います。これまで様々な本を読んで面白いものを見つけてそれを紹介して――これは面白いと思います、読んでください、と言い続けて――書評家としての信用をいまに至るまで培ってきたつもりです。その僕の物差しをもってあらためて選びました。ブックリストです。現物付きです。ただのリストではありません。というのがこの「世界文学全集」の、僕にとってのひとつの意味です。
それから新訳、改訳、本邦初訳が多いという話を先ほど社長がいわれましたが、翻訳というのは更新できます。これはとても大事なことです。新しい文学であるからこそ、少し時代が経つと言葉観が変わる。原文は変わらないはずなんだけど、それを受け止める僕たちの視線が変わるし、日本語が変わる。すると新しい翻訳にすることによって以前は取りこぼしていたところを掬い上げることができる。
僕もある程度翻訳をやってきましたが、他国の風俗についてみんなとても詳しくなりました。むかし翻訳していてクリネックスって出てくるとどうしようかと思ったものです。みんな見たことがなかった。ちり紙としていいのか。ハンバーガーも知らなかったんですよ。そうすると、むかしの翻訳だとそういう部分が少し説明的になっていて、いま見るととても煩雑であるわけです。
そういうところに始まって、人のしゃべり方、敬語の落ち方まで含めて日本語は変わっていきます。したがって翻訳は変えることができる。シェイクスピアの話をさっきしましたが、イギリス人は可哀想だなという話があります。いつでもシェイクスピアを原文のまま舞台に乗せなきゃいけない。他の国ではどんどん面白い翻訳ができるのに。それと同じで翻訳文学というのは変えることができて、それでずっと良くなる、読みやすくなる。
それからもうひとつ、翻訳というのはうまくいかない場合もあります。あの訳はあんまりよくなかった、いい本なのにあの翻訳はね、ということが。そういうものはいずれ機会が来たら改めることができる。今回新しい訳がいくつも入ったことは僕としてはたいへん嬉しいことです。
折しも、光文社の古典新訳文庫もありますし、村上春樹さんの『グレート・ギャツビー』も話題です。『百年の孤独』もご本人が改訳なさったものが出ています。また先ほど申しあげたロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』も、訳者の高松雄一さんが全部手を入れられて、新しい訳が河出書房で刊行中です。
そういう意味では「いまの日本語で読める」というのは翻訳文学の非常に大きな利点であり、それも含めて考えていただきたいと思います。
それから、選んだ基準について。
要するに結論を見ていただくしかないわけで、なぜという問いには僕は答えません。それについてはいくらでも世間で議論していただきたいと思います。あれがあってこれがない、こっちを採ってあれを捨てるとは、なんてやつだ、なんにも知らないんじゃないか、偏っている、ゆがんでいる……どうやったってそう言われるのは承知ですから、黙ってリストを出すしかない。その上で全体の流れとして、2年間をかけて読み進めるうちにどういうものが最後に残るか、できれば期待を持ってこの「世界文学全集」の中に入ってきていただきたいと、読者の方に申しあげたいと思います。