想像ラジオ

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想像ラジオ 対談 いとうせいこう×星野智幸

想像すれば絶対に聴こえる【前編】

いとう
昨年、星野くんと陣野(俊史)さんが、僕の『ワールズ・エンド・ガーデン』(新潮社/1991年)と『去勢訓練』(太田出版/1997年)について書いてくれましたよね。僕はね、十数年以上経て、作品に応答があったことに、すごく驚いたんです。もう誰もあの作品のことは知らないだろうと思っていたし、自分自身もずいぶん久しく小説を書いていなかったから。
星 野
いとうさんが沈黙なさる前の最後の作品が『去勢訓練』でしたね。
いとう

『去勢訓練』を書いていた頃が、小説を書くことができたギリギリの時期だったんだと思います。いつのまにか今回の「想像ラジオ」発表まで、16年が経ったらしいんですよ。その間、書かないというよりは、書けなくなってしまっていた。

奥泉光さんとの『小説の聖典』(単行本『文芸漫談』を改題)でも再三言ってるんだけど、連載をしている途中のある時から「コップが落ちたので割れた」みたいな文章が書けなくなったんです。「ので」の部分が書けない。現実は「ので」で示すほど因果関係の通りがいいわけじゃないって思うと、文章がつながるということ自体も嫌になっちゃう寸前だった。去勢されたエロティシズムだけで自分を鼓舞することはなんとかできたけど、それも連載が終わると、もう何も書けなくなったんですね。

その時期に、友達がよかれと思って、田舎の山に連れて行ってくれたんですよ。それで蝶がひらひら飛んできて、それを「あ、蝶だ」って言おうとしたら吐きそうになったんです。完全にうつの症状なんだけど(笑)。名指すっていうこと自体にものすごい嫌悪があって、たとえば「世界を横切っていく色」くらいに捉えたほうがまだましだったんですね。世界を構成することにほとほと嫌気がさした。

だから「男がいてこうなってこうなります」なんていう物語はもうとても書けないわけですね、「ので」への憎悪で。それでも連載はなんとか終えた。ただ、この「蝶」の体験を奥泉さんに話したら、「それはやっぱり『蝶』って呼んだほうがいいと思うよ」って言ってました(笑)。

星 野
さすが奥泉さんですね(笑)。
いとう

「そんなの当たり前だから書け」と。それをずっとこれまで言われてきたんだけど、自分では感覚的に無理を感じていたんです。それでもようやく3年ぐらい前からまた少しずつ、自分のブログで3本同時に小説を連載したり、佐々木中くんに焚きつけられて『Back 2 Back』を書いた。

自分がまた書けるんじゃないかと思ったのは大西巨人さんのミステリーを、ある時期集中的に読んだのがきっかけでしたね。登場人物の名前がありもしない変な名前だったりするでしょ? 近代小説の中ではありもしない名前というのはアレゴリックだから、最初に避けられるじゃないですか。その変な名前の人が「1998年の何月何日の午後何時何分、どこどこ発の列車の先頭車両から3両目のこの座席に乗った」みたいなことまで、ひとつひとつ細かく書いてある。細々と本当らしくすればするほど虚構の世界になっちゃうんですね。こういうやり方もあるんだと思ったんです。

現実に似せて虚構を描く近代文学の自然主義ぶりが嫌で、別の虚構が欲しい、横光の第四人称はどうだろうとか迷走し続けてた。その長い年月の末、もうどうしたらいいか分からないなあと思っていたときに、大西巨人さんの本当らしく書こうとすればするほど滑っていくという、あの芸が自分を励ましちゃったんだよね(笑)。

星 野
なるほど(笑)。
いとう
だからたとえば何時何分のひばりヶ丘を出発する電車を、大西さんは現実に調べて細かく想像して書いていると思うんですけど、でもある電車を書き込んでいくことによってこれは絶対にないだろうと思わせられるということは、つまり現実を消しているってことなんです。僕は奥泉さんに「書けない、僕は書けない」と言っていたんだけど、「ので」というのは本当らしくするために書くわけですよね。でも大西さんが「aだからa'でa''でa'''で、ので=b」というふうに、積み重ねているがゆえにbの重みがなくなっていく文体に、気づかされた。虚構と現実ということでいうと永遠にbに届かない、迂回していくというのが、僕にとって重要だったんです。
星 野
僕もそもそも現実がズレていくような小説が好きで(笑)、それでいとうさんの小説も好きなんです。でも現実ではない設定で書かれた小説は他にもたくさんあるのに、何故それらには惹かれないのかと考えてみると、今の説明が納得できます。「aなので=bだよね」というのはいわゆるリアリズムを支える、実はみんなが隠し持っている物語の原型ですよね。でもそれには耐えられないし、それを基にして小説を書くことは、90年代以降失調しているはずなんです。
いとう
でもたいていの人はこの「本当らしさ」を思いっきり信じて、近代小説をいまだに書いちゃうか、ファンタジーにいく。
星 野
そう、そうなんです。
いとう
大西巨人さんはファンタジーを書くつもりは一切なくて、リアリズムを徹底して書いていると思っている(笑)。だけど書かれたものはまったく真らしくない。真らしくないということはファンタジーにもならないし、この世の現実でもない。じゃあどの次元にあるのかと言うと、それは小説という宇宙の中にしかない。半面では現実の感触があって半面では現実ではない……、つまりカフカ的なものなんですよね。
星 野
はい。何かを本当に喰い破っている。
いとう
そうなんですよね。そういう作業を星野くんは小説の中でずっとやっていて、僕はその間やらずに逃避してきちゃったから、それはね、申しわけなく見ていました(笑)。

「想像ラジオ」は誰が書いてもよかったし、
今後もそうだと思ってる

星 野
いとうさんの先ほどの蝶の話じゃないですけど、蝶を蝶と名指せない失語的な状況というのは、2011年3月11日の震災後の今、多くの人がその感覚を共有していると思うんです。自明じゃなくなってると思うんです。
いとう

そうですね、世界観が崩壊しましたからね。震災後は映像ばかり見てしまってどうしていいか分からないし言葉なんてひとつも役に立たないと思っていたんですよ。でも震災の2日後というタイミングで、ラリー・ハードがDommuneDJをやったんですよ。ット・ット・ット・ットって四つ打ちで全部インストだったんだけど、別次元に脳が連れて行かれて、そこで何かのエネルギーが補?されていくのを感じた。

自分は四つ打ちの音楽は作れない、だけど同じことを言葉でやらなければいけないなと思って、文字DJというツイッターのアカウントを作って、YouTubeもラジオも聴けない状況だったけどツイッターだけは機能してたから、その中でありもしない曲から実際の曲までつぶやいていたんですね。想像すれば絶対に聴こえるはずだ、想像力まで押し潰されてしまったら俺達にはあと何が残るんだと思っていた。

星 野
「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」という感覚、衝撃的です。この言葉が、震災後の文学そのものだと思います。いとうさんの場合はやっぱり、まず音楽なんですね。そこからなんていうか、アイデンティティのもう少し手前の存在みたいなものを引き出してくる。存在をあらしめるものが音楽で、その存在を意味づけるものが言葉なんですね。
いとう
そういうことに、ようやくなったんですね。
星 野
震災後、小説や文学が無力なものになっていると僕も感じていました。その状態の中でかろうじて意味があるものはなんだろうと必死に考えていたんですが、そのときに思ったありうべき小説が、死者の存在を受けとめる、まさに「想像ラジオ」のような小説だったんです。だけど自分ではどうしていいか分からなかったし、書ける状態にもなかった。それがこんな未知の形の小説として実現されて、胸揺さぶられました。
いとう
それはうれしいな。星野くんのも読みたい。「想像ラジオ」は誰が書いてもよかったし、今後もそうだと思ってるんです。星野くんにしかない感覚があるから、星野くんの「想像ラジオ」があるはずです。同じ構造から始まるヴァージョン違いの小説は伝統的にいってもあり得る。
星 野
喪失を抱えるみんなが、作家であろうがなかろうが、それぞれの「想像ラジオ」を書いたらいいなとさえ思います。しかも、この小説は読むことがほとんど書くことになっている小説だし。小説にある唯一にして最後の力はこれだと思うんですね。まだ僕には発揮できない力ですが。
いとう
いやいや、きっとまた違う力が働きますよ。ともかく、まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分が出来る限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした。それは他の人が書いても変わらないだろうと思う。
星 野
うん、そうなんですよ!
いとう
あなたにも僕にもその力があって、それが未来につながり過去につながる、逆に言うとそれしかもうないから、というのをすごく意識していましたね。
星 野
この小説は全部が想像になった瞬間に、現実の津波のことや亡くなった方のこと、亡くなったという事実、そういうものの境界がすべてなくなるんです。
いとう
そうなんです。さっきの「虚構/現実」の「/」はもう取れてしまって、虚構と現実が一緒にあるんです。
星 野
その人たちと一緒にいるという感覚が、考えるという次元ではなくて、具体的な感触として迫ってくる。読んでいてビリビリ感じて思わずツイッターで一言つぶやいてしまった(笑)
いとう
星野くんがツイッターで書いてくれたことの何が嬉しかったかというと、この小説の第2章に「当事者でないものは語るべきではないのか」っていう論争があるんだけど、まさにあの論争通り、この小説自体に対して当事者のことを考えて書けよと言われたら僕はもう何も言えないんです。だから一語一語、これが人を傷つけてしまうのではないかって、ずっと心拍数が上がったまま今も(ゲラを)直しているんですね。
星 野

小説家に限らず文学関係の人が震災後の小説や言葉について言及したり、小説の中でも震災や原発のことが書かれたりしていますけど、どの言葉もなんとなく暗い気持ちになるんです。いとうさんが今おっしゃった「心拍数が上がる」ような問題を倫理としてクリアしきれていないと感じてしまうし、言葉を使うしかない人間がそれをクリアしないまま言葉を出すのはまずいだろうと思うんです。

だから全体として僕はやっぱり沈黙しがちになってしまう。自分が今書いている小説以外になかなか言葉を発することができず、発するとしたら、そういう小説を自分で書く以外ないと思っていたんです。

いとう

書いているときはなるべく映像は見ないようにしていたんですね。見たら書けなくなっちゃうから。だけどたまにこれでいいのかと思って、震災後の写真などをじっと見るわけです。でもたとえば写真や映像を基にして書こうとしたらやっぱり言葉は無力です。だから小説はこの映像に映っていないことを書かなければいけない。映ってない声を拾わなければいけないんですよ。それが出来ているか出来ていないか、いつも絶望しながら書いていた。

当事者の心を傷つけないということはあり得ないんだけど、でもここは言いすぎていてダメだといっては削り、でも止まらずに書けたんです。今回は第1章の出だししか思いついていなかったから、あとはほぼ即興で書いているんですね。かつての見取り図好きが、明日は書くことがないというところで書きやめるようになった。それは佐々木中くんから聞いた古井由吉さんの言葉、「書くことがなくなってからが作家ですよ」というのが励みでした。だから第2章がああなるとも思ってなかったし、第4章の会話に至っては、毎日壁にぶつかっていてまさかあの形式で書くとは前日までわからなかった。

星 野
でも事後的に見れば、こんなに完璧な小説はないですよ。
いとう
最後にあんなに大勢の死者の声が聴こえてくるとは思ってもいなかったし。でもこのラストを書けたのはね、錦糸町のすみだトリフォニーホールで聴いたバルカン半島の音楽のライブなんですよ。ジプシー音楽のビッグバンドなんですけど、トランペットだのギターだのがぐしゃーっと音を出していて、そこにインドの両性具有のダンサーが出てきて踊りまくっている。観客も俺も踊りまくっていてこんなポリフォニックでたくさんのリズムがあることはなんて素晴らしいんだ……と思った直後の休憩時間、突然ラストシーンのメモが始まった。こんなにいろいろな楽器から音がしてる、その音楽にはこんなにも歴史が詰まってる、それをみんながひとつにして運んでいるんだと思ったんですね。それがなかったら最後の章は浮かんでいなかったと思う。
星 野
音楽を翻訳しているんですかね。音楽の内容を別に移し替えているというのではなくて、音楽っていう存在を、言語媒体に翻訳している。
いとう

音楽の構造、音楽の言語が、自分を刺激しているのかもしれませんね。