想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也

今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。

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書物と読者の「関係」は生成変化する!

いとう
僕はね、切断過剰になった時期には「コップが落ちたので割れた」という文章がもう書けなかったわけですよ。
千 葉
ヒューム的ですね。因果性が気持ち悪く感じられてしまうんですね。
いとう
本当に気持ち悪い。我々の間で「『ので』の問題」と言ってたんだけど、「ので」がどうしても書けない。そうなるとフィクションなんて成り立たないんです。小説なんてさ、ある程度は因果性をつくらなきゃ書けないでしょ。それで、もともと好きだったレーモン・ルーセルに還っていったんです。ルーセルがやっていた、言語の外在性、言葉遊びだけで書くということに。ルーセル先生がおっしゃるのは、フィクションの中には現実を一切入れてはいけないということ。
千 葉
要するに、「ので」を自分の自発性で引き受けなくていいわけですよね。ルーセルは言葉のメカニズムにまかせて、物語が機械的に展開していくので、「ので」を書き手がいちいち引き受けなくてすむ。
いとう
パズルを組み合わせるみたいにそっち側でやっていればいい。こっちに関係ない。だけど僕は引き受け体質なものだから。
千 葉
「ので」を憑依してしまう。
いとう
「ので」を憑依しながら、そうじゃないものをつくろうとしたら、それは無理だよね。それである意味「ルーセル先生、勘弁してください」とお詫びして、今回小説が書けるようになったわけです。でもどこかでルーセル先生の視線を感じているわけ。「お前、『ので』とか書いてんじゃねえよ」みたいな。
千 葉
怖いですね。
いとう
それでたびたびヒュームという人にぶつかるんですよ、僕は。十何年ぶりに書いた短篇(「2011/9/3」『BACK2BACK』)の中には、はっきり「小説のヒューム派」という言葉を自分で書いちゃってるんだよね。まず夏目漱石。漱石はヒュームを研究していた。特に初期、『吾輩は猫である』の漱石はやっぱりヒューム的だったと思うし、ドゥニ・ディドロというフランスの、話がどんどん変わっていっちゃうような変なものを書いている人もすごくヒューム的だと思うし、ルーセルもヒューム的、『トリストラム・シャンディ』を書いたローレンス・スターンも、セルバンテスも、自分の好きな作家が皆ヒューム的に感じられる。そしたらもう一方で、つまりものを主体的というか分裂的に捉えて小説を書いていく、どんどんテーマから外れて転がっていくようなものが好き、ということと、もう一つユーモアの問題が出てくるじゃない。だって、ヒュームをユーモアの問題として考えないと、気が狂っちゃう。
千 葉
そういう状況でユーモアをどうしたらもてるかということですよね。そこはすごくシリアスな問題ですね。
いとう
それは『動きすぎてはいけない』の中では書いてないよね。つまり、「イロニーからユーモアへの折り返し」ということは出てくるけど……。
千 葉
イロニーからユーモアへの折り返しが必要だとは言ってます。でも、どうしたらそれができるのかは書いていないです。書物には、決定的に重要なことで、答えが書かれないことがあるんですよね。たとえば接続過剰は危ない。だから非意味的切断が必要だ、と書いてはいるけど、じゃあどうやったら非意味的切断ができるかは書いてない。そこは方法として定式化できない気がするんですよね。
いとう
それは、書かれたものと読む人の間の関係が外在的だからなんじゃないの?
千 葉
あ、そうですね。
いとう
書物というものは、そういうものだからなんじゃないかな。
千 葉
たしかにそうです。書物と読者の関係も多様に組み換わりうるから。
いとう
たとえばノウハウ本は違いますよね。書物と読者の関係を固定していて、誰に対しても答えはこうだっていう書き方をする。 でも書物というものは、関係が常に組み換わりうる、という事実に目を背けることなく書かれているものなんじゃないかな。
千 葉
そうですね。その「関係束の組み換わり」のことを、ドゥルーズは「生成変化」と呼ぶわけです。 読者が本を読むときに、変化するのは読者のほうだけじゃないんです。本のほうも変化してしまうということです。
いとう
書物と読者の間に起きる「生成変化」ですね。これこそ人文書の醍醐味であり、書物の面白いところなんじゃないかな。 変わらないことが書かれているのに、常に読む場所やタイミングで、がらっと内容が変わってしまう。その現象自体が面白いし、それが書かれてあるものの面白さだと思います。

(この対談は、2月26日に紀伊國屋サザンシアターで行われた受賞記念対談「想像する文学と哲学」を
 再構成し、加筆したものです)

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