11 恋愛カースト制度の呪縛

角田光代

ランニングシャツ、という装備

 もてたいと、言語及び行動で告白するのはなんとも恥ずかしい。これは女子も同じ。そしてそれは、穂村さんの説明と同じく、ありのままの自分がださいから、というのがある。女子的には、それよりさらに意識するのが(センスでなく生まれ持った)容姿である。顔とスタイル。有り体にいえばブスとデブ。ブスでデブでださい私がもてたいなどと思っていることがちょっとでもばれたら、もう世界の終わりだ、というくらいに恥ずかしい。
 ほかの媒体にも書いたことのある強烈な記憶だが、私はそのデブブスださいスパイラルに陥り、痩せようと多大な決意をし、マラソンをはじめたことがある。中学二年生のときだ。この決意に至るまでものすごく時間がかかったのに(ブスデブださいスパイラルの渦中にいる人はたいてい腰が重い)、マラソンの初日、走りはじめて二分後くらいに、すれ違った男子中学生に「うわーすげーでけーケツ!」と言われ、打ちのめされてそのまま帰ったことがある。これはケツのでかさを指摘された傷よりも、ブスデブださいスパイラルを抜け出してもてるのだ、という野心を見抜かれた傷のほうが、よほど致命的であったと思われる。
 以後、私は女子校であるのをこれ幸いと、いっさいの努力をしなかったし、もてる努力、いや、もてたいという願望を、もみ消しもみ消しして日を送った。おそろしいことに、三十代まで。いやもしかしたら、今もそれは尾を引いているかもしれない。
 ところで、穂村さん言うところのカースト制度は、女子校、というか、女子だけの世界の場合、微妙に異なったものになると思う。
 お洒落をしてもきれいな子だけが、お洒落をするのを許される(自分の自意識に)。これはおんなじ。が、お洒落をしてきれいな子が、異性の目を気にしたお洒落をあからさまにすると、嫌われたり疎んじられたり、するのである。
 きれいな子、お洒落な子、スリムな子は、とうぜん、もてる。しかしそのモテがあまりに顕著だと、女子世界ではカーストが落ちてしまう場合がある。いちばんおそろしいのは、中途半端にきれいな子が、もてたいがために、もっときれいに見せようとする、爪を塗る、髪を染める、アイプチをする、肌を露出する、等々すると、もう確実に嫌われ、嫌われるだけならまだしも、ハブにされたりする。
 だから「モテ」「非モテ」と分けた場合、非モテが自意識故にあからさまなお洒落や化粧をしないのと同様に、モテに属する女の子たちもまた、お洒落にまったく気を遣っていないようなお洒落、とか、ほとんど素顔にしか見えないような化粧、とか、男の目などいっさい意識していませんと主張するかのような髪型、等で身を守るのである。ああ、なんと複雑。
 もてたいと主張するのはみっともない、というのは、あろうことか、非モテばかりではないのだ。女子世界では、もてる子もまたそのような願望を隠さねばならない。ある意味で平等ではある。いや、もてる子はモテ願望を隠していても結局はもてるわけだから、結果はもちろん不平等なんだけれど。
 先に、私はもてたいという野心を見抜かれたことが、今現在にも尾を引いている、と書いた。それって具体的にどういうことかというと、初デートにランニングなどを着ていってしまうようなところが、私にはあるのだ。
 本当は初デートなんだから、しっかりお洒落したい。マスカラだって塗りたい。っていうか、じつはこの日のためにもうワンピースを買ってある。それに合わせた靴も買っちゃった。そうしてデート当日の朝、その服を着て鏡の前に立ち、「買ったばかりってばればれ」と、その服のまばゆさに愕然とする。「しかも靴までおニューなのばればれ」、焦りはじめる。「気合い入れすぎてるってぜったい思われる」「好きだって気持ち全開」「野心にあふれすぎ」、気持ちは千々に乱れ、そしてまだ正札のついているワンピースをそろそろと脱ぎ、あれやこれや試行錯誤の結果、色あせたランニングシャツ(キャミソールですらない)とジーンズを着る。せめて化粧……と思い、一度も使ったことのないラメ系のアイシャドーを塗ってみたりして、「うわーいくら服がランニングでも顔がやる気まんまんだよ」と、せっかく施した化粧を落とし、今一度、こんどはファンデーションだけ塗って終わり。そんなことやっているから時間がなくなって、あわてて家を出て駅まで走って汗でファンデーションも流れてしまう。
 三十代以降のこのパターンは「ありのままの私の真価に気づいて、好きになって」ですら、ない。ただの自意識装備である。もてたい、好かれたい、なんて思うのは許さない、ましてそれが人にばれるなんてぜったい許さない、とまさに自意識が言っているのだ。
 私は今も思うことがある。中学二年生のあのとき、「でけーケツ!」の少年に会っていなかったら、それから、あの複雑な女子世界のカースト制度を知らずに成長していたら、私はデート時に正しくお洒落のできる人間になっていたのではないか。
 デートする機会などもうなくなったから、この苦難をしばらく味わっていないが、もしかしたら五十代になってすら、私は初デートはランニング姿、かもしれない。呪縛ってこわい。

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穂村 弘

主電源

 高校一年のときだったろうか。恋愛カースト制度において、私と同等クラスの、つまり恰好わるいサワイと一緒に学校から帰ったことがあった。家までの道すがら、こんな話をした。

 サ「髪を切ろうか、どうしようか、迷ってるんだ」
 ほ「ああ」
 サ「このままだと、前髪が邪魔でさあ」
 ほ「うん」
 サ「でも、ほら、女子って男子の髪が風に靡くのが好きらしいじゃん」
 ほ「ああ、うん」
 サ「だから、どっちをとるか考えてるんだ」
 ほ「そうか」

 私の反応が鈍かったのには、理由がある。私と同等クラスのサワイは、どこからどうみても、「そんなレベル」にはいなかったからだ。
 べたっと顔に張りつくようなそれは「前髪」だったのか……、知らなかった。
 それが「風に靡く」なんてあり得ないと思う。
 そもそも女子の視線が一瞬でも君に留まることはない。
 「前髪」どころか君自身がいなくなっても気づかれないだろう。
 だから「どっちをとるか」悩む必要は全くない。
 もちろん、そんなことを云える筈がない。サワイはサワイなりに真剣なのだ。そして、私には自分の客観的な感想と彼自身の認識のズレがたまらなくおそろしかった。
 同じだ。私自身も、間違いなくこの次元でもがいているのだ。
 クラス一恰好いいトースケが、突然、丸刈りにしてきたことがあった。仲間との賭(か)けに負けたのだ。教室に入ってきたとたんに、男子は爆笑。女子からは悲鳴があがった。担任の教師も、あれこれ突っ込んで妙に嬉しそうだ。たちまち「マルガリータ」というあだ名がついた。
 眩しかった。賭けに負けても、丸刈りになっても、おかしなあだ名がついても、トースケはトースケ。人気者は人気者。その恰好よさは少しも翳ることはない。
 サワイや私とトースケ、恰好わるいと恰好いい、その間の距離を思うと気が遠くなる。

 私は女子校であるのをこれ幸いと、いっさいの努力をしなかったし、もてる努力、いや、もてたいという願望を、もみ消しもみ消しして日を送った。おそろしいことに、三十代まで。いやもしかしたら、今もそれは尾を引いているかもしれない。
「ランニングシャツ、という装備」 角田光代

 ダイエット・マラソンの初日にくじけてしまった角田さんの気持ちが、私なりの角度からよく理解できる。髪型を変えるとかダイエットとか、地道な努力の積み重ねによって、無限の距離が縮められるものなのか。千里の道も一歩から? とても信じられない。
 思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。
 その証拠に、お洒落やマナーの本を書いたり教えたりしている人自身が特に恰好よいわけではない、ってことはよくある。その人たちは、確かに知識もセンスもあるんだろう。お金も時間もかけているんだろう。でも、そんなもの何にもなくたって、恰好いい人は遥かに恰好いい。もともと輝いている彼らは、何故自分が恰好いいのか、その理由を深く考えたこともなさそうだ。逆にいうと、だから、その種の本を書くことはできないだろう。
 高校生の私は「恰好よくなるための本」を何冊も熟読した。でも、くすんだ存在感は変わらない。無駄無駄無駄。だって、主電源が落ちてるんだから。
 じゃあ、それを入れるには、どうすればいいんだろう、とぼんやり考える。バンドを組むとか、留学するとか、風俗に行くとか、タトゥーをいれるとか、青年海外協力隊に参加するとか、バンジージャンプをするとか……、わからない。
 しかし、現実には一歩も動くことができない。自分の部屋で自分の匂いの蒲団にくるまって、外の音をきいている。嗚呼、宇宙人が僕を攫っていって、恰好よく改造してくれないかな。仮面ライダーってそんな話じゃなかったか。変身。