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カナダでがんになった。
不自由な体、海外のままならない生活、
絶望一歩手前のギリギリの毎日。
「私は弱い。徹底的に弱い」
それでも―――
目次
- 1. 蜘蛛と何か/誰か
- 2. 猫よ、こんなにも無防備な私を
- 3. 身体は、みじめさの中で
- 4. 手術だ、Get out of my way
- 5. 日本、私の自由は
- 6. 息をしている
- 終わりに
冒頭ためし読み
1. 蜘蛛と何か/誰か
蜘蛛の多い家だった。
木造の、古い家だ。一軒家を二つに割って隣家と共有するduplex(デュプレックス)は、こちらではよくある構造で、でも、我が家は変わっていた。5階建てなのだった。ベースメントと呼ばれる半地下(これも、カナダではよくある)に一つ目のベッドルームと洗面所とシャワールーム(私たちはここを潰して物置として使っていた)があって、2階部分がリビング、3階がダイニングキッチン、4階がもう一つのベッドルームで、5階がバスルーム、つまり1階に1部屋ずつ、という構成だった。
引越し業者や修理業者、友人、あらゆるカナダ人がやって来たが、皆「こんな家は初めて」だと驚いていた。半地下に洗濯機と乾燥機があるので、5階の風呂で出た洗濯物をわざわざ地下まで持ってゆき、乾燥したらまた最上階まで持ってゆかなければならない。随分と、足腰が鍛えられる家だった。
そして、蜘蛛だ。ダイニングに、半地下に、ベッドルームに、あらゆる場所に蜘蛛の巣があった。なるべく掃除はしていた。でも、あまりに美しい形状だから、掃除せずに残しておいた蜘蛛の巣もあった。そもそも蜘蛛はみだりに殺してはいけないと、小さな頃から祖母に言われていた。彼女は、蜘蛛が弘法大師の使いだと信じていた。
蜘蛛はあるものは大きく、あるものは小さかった。そして、あるものは黒く、あるものは透明だった。猫のエキが蜘蛛を殺さなかったのは、彼が根っからの怖がりだからだが、それにしてもたくさんいた。
ある日、私の左足の膝と、右足のふくらはぎに、ぎょっとするほど大量の赤い斑点を発見した。そしてそれらは、見つけた瞬間から、耐え難いほどの痒みを私にもたらした。前日に友人たちと公園に行き、芝生の上に座ったので、ノミか何かに刺されたのかと思った。友人たちに患部の写真を送って聞いてみると、彼女達は何もないらしい。一人が言った。
『それ、もしかしたらベッドバグじゃない?』
思わず、唸り声が出た。ベッドバグとは、いわゆる南京虫だ。それが家に現れたら、大ごとになる。シーツはもちろん、ベッドマットから、ソファから、衣類からカーテンから、とにかく布製のものは全て専門のクリーニングに出さなければいけない。蒼白になった私は、重い腰を上げて、クリニックに連絡したのだった。
カナダの医療制度は、日本と異なる。日本のように、皮膚科や婦人科などの専門医に直接行けるシステムは、カナダにはない。それぞれにファミリードクターと言われる総合医がいて、まずはそこに連絡を取る。そこでドクターに症状を診てもらい、然るべき専門医への紹介状を書いてもらって、やっと予約を取ることが出来るのだ。
ファミリードクターがいない私のような人は、誰でも受け入れているウォークインクリニックに行く。そこで診察を受け、やはり紹介状を書いてもらって、専門医に予約を取る。
このシステムでは、例えば、明らかな中耳炎のときなども、耳鼻科に直接行くことが出来ない。緊急を要する場合は、救急に頼ることになる。緊急でなくても、専門医との予約が随分先になって、流石に待てない、という人も救急に行く。結果、救急がとても混む。症状によっては8時間、9時間待ちが当たり前という状況だ。
カナダ人は、自国の医療システムに誇りを持っている。特にブリティッシュ・コロンビア州では、MSPと呼ばれる健康保険に入っていれば、医療が全て無料で受けられ、それは私のような外国人や留学生にも適用される。皆の命は平等で、だから救急では、症状の深刻度だけを考慮される。保険のある無しで命に差が出る隣国とは違うと、たくさんの人が言う。
腰が重かった、と書いた。
Message
思い通りにならないことと、幸せでいることは同時に成り立つと改めて教わったよう。
ジェーン・スー(コラムニスト)
読みながらずっと泣きそうで、でも一滴も泣かなかった。そこにはあまりにもまっすぐな精神と肉体と視線があって、私はその神々しさにただ圧倒され続けていた。
西さんの生きる世界に生きているだけで、彼女と出会う前から、私はずっと救われていたに違いない。
金原ひとみ(作家)
剥き出しなのにつややかで、奪われているわけじゃなくて与えられているものを知らせてくれて、眩しかったです。関西弁のカナダ人たちも最高でした。
ヒコロヒー(お笑い芸人)
読み終わり、静かに本を閉じても心がわさわさと迷う。
がんの闘病記という枠にはとてもおさまらず、目指す先はまったく別にあることに気づかされた一冊。幸せいっぱいのときに、それを失う恐怖心が同時に存在するパラドックスに気づくと、上手くいったとしてもイマイチでも、自分なりに納得できる瞬間の積み重ねが人生なのだとあらためて知る。
高尾美穂(産婦人科医)
全国の書店員さんから感動の声、続々!
書籍詳細
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判型 | 単行本 46変形 |
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ページ数 | 256 |
ISBN | 978-4-309-03101-9 |
Cコード | 0095 |
発売日 | 2023.04.19(予定) |
本体価格 | 1,400円(税別) |
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西 加奈子(ニシ カナコ)
1977年、イラン・テヘラン生れ。エジプトのカイロ、大阪で育つ。2004年に『あおい』でデビュー。2007年『通天閣』で織田作之助賞を受賞。2013年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞受賞。2015年に『サラバ』で直木賞を受賞。ほか著書に『さくら』『円卓』『漁港の肉子ちゃん』『ふる』『i』『おまじない』『夜が明ける』など。2019年12月から語学留学のため、家族と猫と共にカナダに移住。現在は東京在住。
公式HP
http://www.nishikanako.com/
コロナ禍と戦争とネットの暴力によって人間同士の関係がズタズタにされ、「愛」や「絆」という言葉に欺瞞しか感じられなくなった今、この本はそうした言葉に本来の意味を取り戻す力を持っている。
ときわ書房 志津ステーションビル店 日野剛広