光秀からの遺言 A will from Mitsuhide 【本能寺の変 436年後の発見】 明智先生インタビュー ~新説を裏付ける新史料発見について~

明智先生インタビュー 〜新説を裏付ける新史料発見について〜

Q.

10年以上にわたる研究の集大成となる新刊が発売になりますが、ちょうどそのタイミングで「新史料発見」のニュースが舞い込みました。
明智先生から、ぜひ詳しく解説いただけますか?

《明智》

熊本県立美術館では細川ガラシャ展が2018年8月4日から9月24日まで開催されています。展示物の中には明智光秀関係の書状もあり、熊本日日新聞によれば、「明智光秀が1566(永禄9)年に、交通・経済の要衝だった近江国の湖西(滋賀県の琵琶湖西岸一帯)で活躍していたことを示す書冊が熊本県の旧家で見つかった。織田信長に仕える前のもので、光秀に関する史料としては最古。足利将軍家との関わりがうかがえる」とのことです。

実はこの書冊が発見されたのは2014年のことです。2014年10月3日付日本経済新聞の「信長『幻の上洛』、大名離反で頓挫 裏付ける書状発見」と題する記事には次のように書かれています。

「熊本県立美術館と熊本大、東大は3日、織田信長が天下統一に向け、1568年に上洛する2年前に計画した『幻の上洛作戦』を裏付ける足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から、計画が実行直前で頓挫したことも分かるという。」(後略)

織田信長と足利義昭の上洛は永禄十一年(1568)ですが、その二年前の永禄九年にすでに二人の「幻の上洛作戦」があったことを裏付ける史料が発見されたというのです。

米田家には貴重な古文書(書状などの他者へ意思を伝える文書)が多数存在することは知られていましたが、医術書の裏面は今まで見落としていて、たまたま「発見」されたとのことです。

Q.

436年も経ってから新史料が出てきたわけですが、これからも似たような発見の可能性はあるのでしょうか?

《明智》

もちろんです。今回は、すでに知られていた史料の「裏面」から新事実が判明したわけですが、このように、いまだに研究のスポットライトが当たっていない所に重要な文書が死蔵されている可能性が大いにあるということです。「史料がない」という現実は、そもそも史料が存在していないということとは限らず、史料が死蔵されている可能性もあるのです。もし、研究のスポットライトが正しい所に当たれば新史料が発見される可能性があります。

これまで明智光秀研究は間違った所にスポットライトが当てられたままでした。定説とされる光秀の前半生が間違っていたからです。定説では越前の朝倉義景に仕えていた光秀は永禄九年十月に越前を去って岐阜へ行き、織田信長に仕えたとされています。当時の史料を調べ上げた私の歴史捜査によって「織田信長に仕えたのではなく、細川藤孝に仕え、そして後に足利義昭の直臣である奉公衆に出世した」と明らかにしたのは九年前に出版した拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』が初めてでした。

光秀に関連する書状などの古文書は二百三十種ほど知られていますが、これらには月日のみで年が書かれていません。研究者が書かれている内容と光秀の既知の事績との関連を調べて年を推定する「年次比定」を行います。しかし、それでも年を決められない文書が二百三十の内に四十以上存在しており、年次比定されたものでも研究者によって年次の見解の異なる文書もあります。光秀の事績が未だに十分に明らかになっていないことを示しているといえます。スポットライトがずれているので研究が進まないのでしょう。

Q.

「年次比定」の重要性とは?

《明智》

織田信長研究の基本資料とされる書籍『織田信長文書の研究』に元亀三年(1572)に年次比定された光秀の書状があります。日付は五月十九日、宛先は将軍義昭の申次を務めた幕府奉公衆曽我助乗。近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三か所を落としたこと、林方よりの注進を義昭へ披露するように依頼した書状です。読み下し文でご紹介します。

明智光秀書状写

高嶋の儀、饗庭三坊の城下まで放火せしめ、敵城三か所落城したので今日は帰陣しました。然るところ、林方より只今この如くの注進がありましたので、然るべく御披露肝要です。事態に変化があれば追々報告いたします。

明智十兵衛尉

五月十九日光秀(花押影)

曽我兵庫頭殿

御宿所

この元亀三年という比定が極めて疑問です。なぜならば前年の比叡山焼討の功績によって光秀は信長から近江志賀郡の領地を与えられて、義昭から信長に仕え替えしているからです。光秀が義昭へ報告しなければならない理由がありません。

調べてみると元亀三年に琵琶湖の西の高嶋周辺での幕府軍や信長軍の戦いの記録が見付かりません。この地域での戦いの記録を探すと永禄九年(1566)にありました。浅井長政が高嶋郡の土豪饗庭氏を中心とする三坊を味方に付けて幕府御家人朽木氏・田中氏の所領押領を図った文書です。その文書が小和田哲男編著『浅井氏三代文書集』に収録されていました。4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め知行を宛がう旨の書状です。宛がわれた知行には朽木氏・田中氏の領地も含まれています。つまり、元亀三年とされた書状は永禄九年に年次比定すべきものだったのです。

そして2014年の「米田家文書」の発見が決定的な情報をもたらしました。発見された文書の中に光秀が永禄九年に高嶋城の合戦で戦功を挙げたことを書いた文書も発見されたのです。しかし、どういうわけか研究資料として公開された情報が確認できませんでした。定説と異なる史料として無視されたのか、この史料の発見はほとんど注目されませんでした。今回の「細川ガラシャ展」で、ようやくこの史料が公開されました。

Q.

この史料から何が分かるのでしょうか?

《明智》

この史料の発見により元亀三年とされていた光秀の書状が永禄九年のものであることが確定しました。しかも、この史料の方が最古のものだったのです。

光秀は永禄九年には間違いなく足利義昭の軍勢の一員として近江にいたのです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた光秀の前半生の裏付けが強化されました。

このように、新たに発見された史料を表面的に読めば、「1566年に光秀は湖西地方で活躍していた」「1566年に信長の幻の上洛計画があった」というだけですが、これがヒントとなって、埋められなかったパズルのピースを一気に埋めていくことができるのです。

その後も継続して進めてきた歴史捜査によって光秀に関連する史料として天文十三年(1544)と弘治二年(1556)のものが、さらに発見できました。9月20日発売の拙著『光秀からの遺言 436年後の発見』河出書房新社は私の15年間の歴史捜査の集大成です。この本で今まで謎とされた光秀の前半生、出自・系譜、生年などが初めて明らかになります。

このように光秀の本当の出自・人生が明らかにされたことにより、5年前に出版した拙著『本能寺の変 431年目の真実』に記した本能寺の変の全貌がより裏付けを強化されました。定説とはまったく異なる明智光秀の人世・人物像にご期待ください。

特設サイトに戻る >
TOPへ戻る