想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也

今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。

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人文書とは、頭にプラグインする「装置」だ

千 葉
僕は『ノーライフキング』に大きな影響を受けて育ったので、今回お話しできること、とても嬉しく思っています。それで改めて『想像ラジオ』を読んで、泣いてしまいましたね。けっこう体にきました。泣くということは自分の体にくるということなんです。それほどこの本は危険な本なんですが、まずは『想像ラジオ』は一言でいえば、死者への喪ですよね。そして、これは深く「関係する」話なんですね。
 今回、『想像ラジオ』と『動きすぎてはいけない』が同時に賞をいただきましたが、一見すると真逆の本なんじゃないかと思うんです。もちろん最終的には結び合うと思うんですが、表立っているテーマとしては正反対になっていると思うんです。
いとう
生わかりのまま質問を投げたら面白いかな、と思って言うけど(笑)、それって「接続」っていうことですか?
千 葉
はい、『想像ラジオ』ではすべてのものを関係させていきますね。
いとう
そういうところはあると思います。DJアークという主人公があらゆる死者からのメッセージを受けとる。それはつまり放送がつながるという意味ですよね。これは 千葉くんの『動きすぎてはいけない』に出てくる「接続」と「切断」という対比にあてはめるなら、「意味的接続」だよね。
千 葉
そうですね。DJアークは様々な他者からの声を受け取りますが、これは哲学的な背景で言うと、レヴィナスやデリダみたいなユダヤ系の哲学者に近い。彼らは自分が能動的にやるのではなく、他者からメッセージが届いてしまう、あるいは憑依されてしまう、という言い方をします。憑依はフランス語で〝オンテ〟と言いますが、我々はオンテされて動いている、他者のほうにイニシアチブがあるんだ、というわけです。どんどん他者につながり、他者に対する責任、他者のつらさを無限に引き受け、共有する。ある意味で僕の本は、そういう〝引き受け過ぎ〟を、「接続過剰」と呼び、注意を喚起した。「つながりすぎ」の状態を、どこかで意味もなく放り出してしまうことを、ドゥルーズは「非意味的切断」と呼んでいますが、それを「接続過剰」に対置させました。「接続」というと、ネットの「つながりすぎ」に焦点を当てて読まれがちですし、もちろんそれもあるのですが、そういう他者論の背景を念頭においています。
いとう
いま図らずも僕は「それは千葉雅也で言えば、意味的接続でしょ」って言っちゃいましたけど、これがこの本の優れたところだと思うんですよ。優れた人文書って、すべての内容を理解したわけではないのに、使えるんです。千葉くんのこの本は、ものすごく難しい本ですよ。でも僕は、優れた「人文書」や「哲学書」っていうのは、「わからない」ということが重要だと思っています。 千葉くんのあとがきに、松浦寿輝さんから、文学をやったらみたいに言われたと書いてあるけど、やはり哲学を含めて文学と言ってもいいし、文学を含めて哲学と言ってもいいと思う。それはロラン・バルトが言う「記号学と言語学の関係」みたいなもので、どっちがどっちに入るのかを変える度に発想が変わるような問題じゃないかと思うんです。僕は、千葉くんが『動きすぎてはいけない』を、本人が文学と意識して書いているんだと知ったとき、なるほどと思いました。僕はこの本を文学的にしか読めないし、厳密に哲学的に読むことはできないけど、ここから何かを得ています。『動きすぎてはいけない』は、僕の小説よりよっぽど文学ですよ。動きすぎてはいけないようにしてはいるけど、ぷるぷる微細に震えている。文学として読めない批評って面白くないでしょ。ドゥルーズだって詩みたいなものを書いてる人って、僕は思ってますしね。
想像ラジオ書影 河出書房新社 想像ラジオ
千 葉
母国語の中で外国語をつくりだす。母国語を外国語化すること。ドゥルーズによれば、マイナー文学やマイナー言語とは、そういう内的なズレのことでした。いとうさんの作品もそれだなと思うんです。小説といっても、ジャンル的なものとまったく違うところでつくられているんだと思っています。『ノーライフキング』も『想像ラジオ』も小説なのかと考えると、小説と言えば小説かもしれないけど、いとうせいこうという人が繰り出してくる「何か」でしかない。それは……「装置」と言ったらいいんですかね。
いとう
ああ、僕は「装置」好きですからね。
千 葉
あるいは、ソフトウェアと言ってもいいかもしれません。『ノーライフキング』は伝染していくソフトウェアだった気がしますから。
いとう
ノーライフキング』をもし多感な子どもが読んだら、特に当時読んだら、ものすごく危ない影響があったとは思います。
千 葉
僕は受けましたよ。まさにあれは「装置」だったし、すごく伝染性の高いソフトウェアだったんです。当時のゲームはカセットだったでしょ。『ノーライフキング』はカセットでした。ガチャって頭に入っちゃったんですよ。あえて「文学」という言葉を狭めて言うと、文学は鑑賞するものではなくて、プラグインするもの、ジャックし、憑依して、身体を別の「関係束」に再構成してしまうものだ、という感じがします。思想書にはそういう性格がありますよね。だから、いとうさんの小説は思想書と似ていますよね。
いとう
そう、たしかに装置であることは完全に心がけていましたね。千葉くんの本も完全に「装置」だよね。ぷるぷると震える文学的「装置」。そして震えるための「装置」。つまり、人文書っていうのは、小説と哲学とか、フィクションとノンフィクションという対比じゃなくて、「装置」とか「ソフトウェア」として区別するほうが面白いのかもしれない。で、使ってるつもりで使われてたりするのに気づいたり。
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