想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也

今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。

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十六年間の「切断過剰」からの帰還

千 葉
 「動きすぎろ」と言う人って、危ない精神状態になってくるのがわからない人なんじゃないかなという気がします。
いとう
たしかにそうですね。たとえば接続の側に動きすぎた場合、関係妄想になるでしょう。
 僕も一時期完全に関係妄想になっていて、これが「接続過剰」ですね。その反動で今度は「切断過剰」になっちゃったら、十六年間書けない状況になった。ほとんど鬱病のようですけど、シンタクスが書けなくなって、文章を並べること自体に嫌気がさしてしまったんです。それは千葉くんの本に出てくるD・ヒュームの「関係の外在性」の問題にすごく関わってきます。特に初期に自分の中で何が起きたのかが千葉さんに言われてはっきりしたんだけど、明らかに「切断過剰」で、きわめてヒューム的状態になっちゃったわけ。たとえば「私はどこで何をしていた」という文章を書くこと自体が気だるくなっちゃって、吐き気がするわけです。
 一番ひどかったときは、かなり鬱の状態が深刻で、友人の藤原ヒロシが「もっと自然の中でゆっくりしたほうがいいよ」って田舎のほうに連れていってくれた。山のほうに登っていったときに、雑木の中にいて、風が吹いているんですけど、ぐしゃっとしているんです。そこに蝶が一匹とんできて、これは蝶だって思いたいんだけど、そう思うことに異様な吐き気があるわけ。それを自分で名指したくない。個体を認識すること自体が嫌になっちゃった。それは千葉先生としては、かなりまずいでしょう?
千 葉
まずいですね。分節化して世界を組み立てることができないということですからね。
いとう
世界を切断することによって、丸山圭三郎的に言えば「言分け」し、ソシュールで言えば、言葉によって世界を切断し、そのことによってある構成的な世界を把握する、ということで接続する。それで人はなんとか狂わずにいられる。しかし認識として、因果律というものはほぼ何もないから、それが蝶だと言うべきではない、となっちゃったんです。
千 葉
「意味的切断」ができなくなるわけですよね。なぜなら意味を切り取ろうとしても、そもそもあらゆる切り取りは非意味的でしかないから。だったら非意味的切断でまあいいやと思えばいいのですが、そうだとしてもやはり意味を深く求めてしまって、非意味的切断で済ませることが許せなくなるわけですよね、きっと。そうなると何も納得して分節化できなくなるから全部ぐちゃぐちゃになってしまう。
いとう
そうだね。非意味的切断の究極にいきたくなって、もうすべてのものが認識できなくなってしまう。
千 葉
非意味的切断の過剰になっちゃって、ほどほどに非意味的切断にしておくということができなくなる。
いとう
そのまずいことを、そのときの自分は“正しい”と思っているんです。ある意味では正しいんだよね。世界の把握として原理的には正しい。けれども、だったら狂気の側にいけばより正しいのに、踏みとどまってじっと汗をかいている自分がいるわけ。だったらもう戻ってきなさいよっていうのが、千葉くんの本なんじゃない?
千 葉
そうです、意味の世界へ、です。言分け、身分けがない状態は、一つの真理ではあるとおっしゃったじゃないですか。その真理に対して、ものが分けられている状態というのに何らかの優先権を与える意味があるんですかね。
いとう
そこからが問題なんだよ。
千 葉
結局ものに意味がある、「これがコップ」「これが本」と分かれていて、個物であって、別々であって、というのが常識の世界じゃないですか。常識の世界で「ものは別々にありますよ」と言うけれども、よくよく考えると、蝶を蝶として認めるなんてことは成り立たない。すべてはぐちゃぐちゃの相互関係に溶けていく、と考えるほうが、むしろ容易ですし、哲学的にものの本質を突き詰めていくと、容易にそっちのほうにいく。むしろ常識の世界に立ち戻って「これとこれとは別々のものだ」って考えるほうが、よほど難しいんですよね。
いとう
たしかに粒子レベルで言ったら、皆動いていて相互に貫通し合っている。
千 葉
全部、素粒子じゃないですか。『想像ラジオ』には両方のテーマがあると、僕は読みました。だんだん自分の身体の境界がわからなくなってきて、誰が言っていたエピソードなのか、アークが自分の話として言っているのか、わからなくなる。だけど、「痒みが自分の輪郭というものを保っている」というキーフレーズが出てくる。あの痒みって何なんだろうと思うんです。あれは、個が切り取られているということの意味のなさ、個の「非意味性」だと思ったんです。
いとう
痒さには何の偉そうな意味もないのね、本当に。
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