今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。
- 千 葉
- 『ノーライフキング』では、登場する子どもたちは、子どもらしい偏った狭いやりかたで世界を想像し、モンスターになぞらえたり、町をゲームにしちゃったりしますよね。それは大人や他の人に理解されるものではない切り取りですよね。ああいう世界把握は僕にとってすごくリアリティのあるものでした。ファミコンの登場以後、小学校時代の僕は、校庭の遊具にしても街の人々にしても、ゲームの場面のように見るようになったし、その感覚の延長上にパソコンの「デスクトップ」が来て、インターネットのヴァーチャル空間が来て、というふうに成長してきました。『ノーライフキング』はそういう感覚をすごく鮮やかに簡潔に捉えていて、そうそうこういうことなんだ、と思ったんです。
- いとう
- 別の「見立て」をするわけだね。
- 千 葉
- だから、言分け、身分けというのも、フィクションをつくるということなんじゃないですかね。『ノーライフキング』は世界の二重化、三重化の話です。世界を別の切り取りをしてフィクションにしている。
- いとう
- 子どもが同じ比率で道に石が置かれていると思い込んじゃったりするのもフィクションですね。
- 千 葉
- そういう意味では、「これとこれが別のものである」というのも、妄想の一種とも言えますよね。
- いとう
- ああ、それも妄想と見るんだね。
- 千 葉
- でも、それは妄想と言うより、フィクションと言ったほうがいいんでしょうね。
- いとう
- ああフィクションだね。でもフィクションであるからといって、それを捨て去るのは容易なことだ、といってるわけじゃないでしょう?
- 千 葉
- そうです。フィクションを維持するということは難しいのかというと、ここが紀伊國屋サザンシアターだというフィクションはかなりの人が維持しているらしいですよね。そういう意味で、それなりに可能なことだとは思うんです。だけど少なくとも哲学の問題としては、このフィクションが一体どうできているのかは、まだ追究の余地があるんですよね。
- いとう
- すると、フィクション論にもなっているのね。
- 千 葉
- フィクションの「仮固定」をするとはどういうことか、ということですかね。
- いとう
- 2章にドゥルーズのヒューム主義が出てきているでしょ。僕はここにブルブルッときちゃうわけよ、わからないのにだよ。
- 千 葉
- 「関係の外在性」というのは、要するに、関係が全部フィクションだっていう話です。たとえばAとBが隣り合っている、という関係にあるとするじゃないですか。十センチの距離を離れて隣り合っている関係があるとして、この関係をRとしますね。Rは、Aが何であるということとBが何であるということとは関係がないですよね。
- いとう
- 他のものに置き換えてもいいからね。
- 千 葉
- 置き換えられますよね。特に位置関係というのはその最たるものです。この関係Rは、AとBにとって「外在的」でしょう?
- いとう
- ああ、本質的ではないということね。
- 千 葉
- そうです。ドゥルーズのヒューム主義のとんでもないところは、一見ものの本質と切り離せなさそうに見えるありとあらゆる「関係」は、全部「外在的」だと考えられる、ということなんです。とはいえ、外在的じゃない関係もあるかどうかについてドゥルーズの記述は明確ではないんですが、極端に外在性説を採るならば、あらゆる関係は、置き換え可能なフィクションとして考えられるんじゃないかと。
- いとう
- ということは、固有な関係やコンテクストが全部外れた世界?
- 千 葉
- そうなります。一定のさまざまな関係によって世の中ができているとしても、それは仮留めされているだけ。