想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也

今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。

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いとうせいこうによる恐るべき「接続過剰」体験

千 葉
想像ラジオ』はまず、震災という出来事に含まれる多様な声に向き合うことなく、アベノミクス的経済優先主義で行こうという「忘却」の力にどう抵抗するか、そこにあったはずの多様な「声」を聞き、多様な他者たちに取り憑かれるという作業をやらなくてはいけない、というメッセージとして聞きました。死者の声の反響は、ソフトでコミカルなタッチに書かれてはいるんですけど、僕は読んでいくうちに体が侵蝕されて、ダメージを受け、何かを「切断」せざるをえない気持ちになりました。いとうさんはこれを書いていてつらくありませんでしたか。
動きすぎてはいけない 河出書房新社 動きすぎてはいけない
いとう
つらかったですよ。精神的にも調子が悪いし、中でも出てきますけど、自分の悲しみに侵蝕されてしまって、心臓がハクハクして動悸が上がっている状態がずっと続いていました。けれども千葉くんが言うように、“オンテ”されなければならないという前提のもとで書いたことは事実としてあります。それ以外にこれを書く手立てがないだろうと思っていました。「あなたにその資格がありますか」と常に突きつけられ、今後も突きつけられ続けるであろうけど、しかし小説を書くという作業には、ある面そういう「接続過剰」は必要だろう、と思いきって飛び出した。
千 葉
なるほど……。
いとう
ノーライフキング』という、僕が最初に書いた小説で、これは小説ではなく物語だ、と自分から言い訳のようにあとがきに書いてたんですね。
千 葉
つまり作者が小説ではない「何か」としての物語を自分に憑依させたということ。
いとう
はい。『ノーライフキング』を書いたときは、まさにある晩の一時間ちょっとの間に、筋がワーッと降りてきちゃったんですよね。主人公はまこと、こういうゲームがあって……と降りてきたものをその場で当時の妻に、そのへんにあるレシートの裏とかに書きとめてもらい、二〇日間くらいで書きあげてしまった。でもそれが良くも悪くも、僕にとっては枷になってしまって、小説というものは降りてくるものなんだと思ってしまった。だから次の作品も依坐のように待っていたら、一つも作品が降りてこない。それで次の『ワールズ・エンド・ガーデン』を書こうとしたときは、無理やり憑依状態をつくらなければならないと、自分を追い込んでしまった。それで「接続過剰」になってしまったんです。
千 葉
じつは僕、あの小説は読み通せなかったんですよ。
いとう
あれは千葉くんは読まなくていいですよ、あれは接続過剰だった。タクシーに乗っていて、そこで流れているニュースが自分の小説に関係していると思っていたからね、当時。
千 葉
僕が書いた「接続過剰」というのは、まさにそういう状態についてなんです。
いとう
憑依されているうちはまだ幸せなんですよ。でも憑依を反復させようとして、作為的な憑依を起こそうとすると、バッドトリップがある。それが僕にとってはすごく怖い。小説を書くことが基本的に怖いし、書くとだいたい予言みたいになっちゃう。でも『想像ラジオ』は予言的に書いているんじゃなく、起こってしまったことを書いているので、違う接続過剰ができるはずだし、精神的に乗り越えられる範囲内で書けるんじゃないかと思った。
千 葉
憑依的に書くというよりは、憑依し合うということ「について」書いていますよね。だから対象化されていると思いました。
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