想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也

今回の「キノベス!2014」は、いとうせいこう『想像ラジオ』が第1位、「紀伊國屋じんぶん大賞」は、千葉雅也『動きすぎてはいけない』が大賞を受賞した。千葉さんは十代で、いとうさんの『ノーライフキング』に大きな影響を受け、『動きすぎてはいけない』にはそれが反映されているという。一方いとうさんは、ヒュームへの関心から千葉さんの今回のデビュー作にいち早く注目していたとのこと。ソシュールやデュシャンなど小説以外の分野でもつねに斬新な論を展開するいとうさんと、「切断」のキーワードで今最も注目を集める千葉さん。はたして「人文書」はお二人にとって、どういうものなのか? 文学と哲学が生成変化しあう「装置としての人文書」に迫る。

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『動きすぎてはいけない』は千葉自身の悪魔祓いの本だ

千 葉
ところで『想像ラジオ』は根本的には現代の『ノーライフキング』かなという気もしました。まず想像力のない生活というのがある。『ノーライフキング』で言うと普通の大人たちの世界。震災に関して言うと、経済イケイケドンドンの人たち。そうではなく、世界の傷みたいなものに対する感受性や想像力があるとき生じると、一気に感染する。『ノーライフキング』の場合では、ある「噂」です。しかもそれはゲームのバグであって、些細にして重要な「間違い」であり、子どもたちだけの間で伝染していく。『想像ラジオ』の「聞こえる」という物語も、伝染の物語であって、二つは並行している。
いとう
千葉さんに指摘されて思うのは、『ノーライフキング』の場合、ゲームソフトの中にバグがあるということはおそらく「非意味的切断」でしょう。
千 葉
ああ、なるほど、そうかもしれないですね。
いとう
「非意味的切断」が起こっているということをめぐっての「接続」なんですね。一方『想像ラジオ』は、失われ、バラバラになってしまった死者というもの、その切断をとにかくつないでみよう、というところから始まっている。だからアクシデンシャルなものが『ノーライフキング』だとすると、僕も長く生きてきて、『想像ラジオ』では対象化が起きたのかもしれませんね。接続やむなしっていうかたちの接続なんだよね。そこにちょっとだけ差異がある。ラジオのリクエストで来るものって、まさに向こうから来ちゃうわけじゃない。こちらから能動的に働きかけられるんじゃなくて、『動きすぎてはいけない』で言えば多孔的なかたちでDJがいる。その孔の中にスポスポと物やメッセージが入ってきちゃう。それは、言ってみれば電波系ですよ。まさに自分が電波系になるということを選ぶとこうなった、ということなんでしょうね。
千 葉
接続することは必要なんですよ。だけどありとあらゆることが自分と関係しているということになると大変なことになる。『動きすぎてはいけない』では、特に「序─切断論」が「SNSをやりすぎるな」「ツイッターを見すぎるな」「LINEをたまには切れ」みたいな話として読まれるし、それはそれでいいんですが、僕としてはむしろ「憑依されすぎ」の恐ろしさからどうやってギリギリ身を守るかのほうを強く言ってるんです。
いとう
憑依は千葉雅也自身に起きているの?
千 葉
僕がそういうタイプなんです。だから『想像ラジオ』を読んで危かったんです。涙も出てくるし、ぞわぞわしてくるし、これはすごく危険な本だなと。
いとう
動きすぎてはいけない』というのは千葉くん自身の悪魔祓いの本なんですね(笑)。
千 葉
そうです(笑)。
いとう
実際に憑依という問題を、たとえば社会的責任とか─僕もそれを感じやすいタイプですけど─何か磁場の狂いを身体的に感じるとか、いろんなトゥーマッチが起こってくるでしょう。LINEもそうだし、既読にしたまま返さないとか、贈与に対して何も返さないということに対する異様な負債というものを、ここに来ている皆さんも、時代的に感じちゃっているってことですか?
千 葉
〝背負っちゃう感〟がインフレしている、というのがある。いろんな意味で説明責任がうるさく言われますし、良かれ悪しかれどんどん真面目になっちゃっていることがあると思います。
いとう
もっといいかげんだったもん、社会は。
千 葉
そうですよね。浅田彰さんと話すことがあるんですけど、とにかく野放図なんですよね。中沢新一さんにしても蓮實重彥さんにしても、あの時代のすごい人たちって乱暴ですよね。そこからすると、もう僕らの世代なんてきちんと奨学金も返さなくてはいけないし、みたいなことになっていて。だから僕は上の世代に接しているとすごく励まされるんですよ。もっと適当でいいんだって。
いとう
それはねえ、もう僕の段階でも言われていたことだよ。「いとうは律儀すぎる。だから文学に向かない」って。じゃあ文学ってでたらめって意味なの、って思いましたよ。世代論は好きじゃないけど、僕はそう言われることに反発しなければならない、と思った。きっちりしていることから逃げないようにしよう。逆に、思いっきりきっちりしてみたら特異になるんじゃないのかなって思った。だから、きっちり憑依させる、とか、憑かれまくるとかする以外に、律儀であるという非難を外すことができなかった。それで今回、千葉雅也という人が、今度は下の世代から、非意味的切断─僕はそれをアクシデンシャルだと解釈するけど─事故的な、自分では統御できないような切断を常に受け入れるように、つまり、脱線したら線を戻すなということでしょ?
千 葉
事故的な脱線、そういうことがあってもいいということですね。
いとう
そういう本が出てきたとき、〝挟み撃ち〟に遭ってるって正直思ったよ。上からも下からも「お前、律儀だな」って言われて、って気持ちです。僕、動きすぎるタイプだから。ものすごく普通に言って、活動的でしょう。常に動いてないと気がすまない。皆さんが思っている僕は、じっと一つのことを考えている人間に見えるかもしれないけど、超分裂的だから。ラップの歌詞を十五分書いているかと思ったら、違うことをメモっている。実は分断されているんだけども、基本的には動いているんですよ。だから「動きすぎてはいけない」と言われたときに、「また怒られる」という感じがした(笑)。
千 葉
どちらかと言うと、僕は自分のことを怒っているんですよ(笑)。
いとう
え、戒めの本なの?
千 葉
そうです。自分もどちらかと言うとそういうタイプなんです。すごく気が散りやすくて、趣味がいろいろあって、いろんなジャンルのことをやっちゃうし、妄想的にもなる。だから「『動きすぎてはいけない』なんて今さら上から目線で保守的っぽいこと言って」みたいに思われるんですけど、それは完全な勘違いです。自分に向かって言っている、きわめてプライヴェートな著作なんです。ドゥルーズ自身がそういう戒めみたいなものを感じていたと思う。ガタリみたいにいろんなことを動いてやっちゃう人と一緒にいて、何かものをつくるときに、ある範囲を設定するとか時間を区切るとか、そういうことがどうしたって必要だと。だから僕はドゥルーズ自身から有限性のテーマを引き出したんです。
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