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福永信 『コップとコッペパンとペン』
刊行記念特別インタビュー

これは実におもしろい文学の本だ」 阿部和重氏絶賛の奇跡の短編集!!

 1行先もまっっったく予測できない、作者がボケて読者がツッコむ、史上初の非人情な小説集です。第1回Z文学賞(選考委員:島田雅彦氏、大森望氏、豊崎由美氏)受賞作の表題作、及び書き下ろしを含む短編4編収録。
刊行記念として、知性とユーモアにあふれた特別インタビューをお届けします。あ、インタビューではボケてませんよ。(編集担当より)


聞き手:佐々木敦
協力:INVITATION(ぴあ刊)

―― 『コップとコッペパンとペン』は6年ぶりの待望の短編集ですが、まず気になるのは収録作品の選択?についてです。「コップとコッペパンとペン」「座長と道化の登場」「人情の帯」そして書き下ろしの「2」という構成には、いかなる意図が込められているのでしょうか?(というかそもそも意図は込められているのでしょうか?)。というのは、福永ファンならば誰でも気になるように、ここには「根木山」「五郎の読み聞かせの会」「私の洛外図」「寸劇・明日へのシナリオ」といった作品が入っていないからです。遠からずもう一冊、別の版元からも短編集が出るという噂も耳にしているのですが、これらはそちらに収録されるのだとすると、二冊の分け方には何らかの理由があるのでしょうか?

福永 作品は、一度発表できるチャンスがあれば、もうそれで満足なんで、ほんとは初出だけでいいと思ってるんです。たとえば「根木山」は、僕がはじめて文芸誌に書いた作品ですが、これは「文學界」という場に初めて登場するんなら、と思ってベテラン風に書いてある。決してパロディではないんですが、黒井千次さんが書くような初老の男を登場人物にしたててある。初登場の身だと、もしかしたら福永信というのは、定年をむかえた男であって、ひさびさに文芸誌に登場したんじゃないか、と「文學界」の読者に思ってもらえるかな、と。
 身元もわからぬ(?)無名の作家だからこそ、初登場だからこそ、2回目、3回目には不可能なリアリティを作者自身の存在がまとうことができるかなと思ったわけですね。むろんこの短編を読み進めていけば、だんだんあやしくなるわけですが(また、巻末には生年が明らかにされているわけですけれど)。
 ともかく、「根木山」が入ってないのは、「文學界」2002年2月号にしか、成立する場をもたないから、ということなんです。(詳細は省きますが、「私の洛外図」もほとんど同じ理由で、あれは「生活」というお題で競作で書いたもので、その特集のなかでしか、おもしろさがでないものだと作者としては思っているんです)。

 一度発表すればいいというのは、発表後に直したいと全然思うことがない、ということでもあるんですね。「根木山」、「私の洛外図」なんかは、バックナンバーのなかで生きつづけてくれればいい、と思うんです。
 だけど、今回の『コップとコッペパンとペン』(以下、こっぺ)に収録した作品は、「直したいな〜」と雑誌に発表した後も、思ってたものなんです。ふしぎですね。なんでそう思ったのか自分でもそれはわからない。新しい作品を書くほうが、何かといい(原稿料も入るし)のにね。「根木山」にも雑誌に多少の書き込みはしたけれど、「こっぺ」収録作は、一字一句から大幅な削除や書き足しまで、直したいところが多かった。けれど、雑誌に発表した後、もう一度雑誌に発表できないでしょう。できればいいんだけど、まあ、できない。そして、読み直すとこうしたい、ああすればいいというところがどんどんでてくる。それを読んでもらうには、単行本にすればいいと思って。

(ちなみに「五郎の読み聞かせの会」も、かなり直したくてうずうずしてて、これは『アクロバット前夜』のタテ書き版に、同じ「五郎もの」(?)の「五郎の五年間」と差し替えて(これは例のヨコ書きのテキストしかないから)、収録予定です。発売時期はまだ決まっていませんが。
 「寸劇・明日へのシナリオ」は、日本文藝家協会が出してる二段組のアンソロジー「文学2007」の字数にあわせて、加筆修正して再録します。これは5月に出るそうです)

 書き下ろしは、最初は「文藝」に載せるつもりで書いていて、これはあからさまな続編なんで、雑誌にはふさわしくないものになっちゃった。ほんとは「人情の帯」の次の号とかに発表できればよかったんですけれど、全然書き終わらず、どんどんのびにのびて、それならこれは書き下ろしにすればいい、と。
 「帯」なんだから、つづく、という感じを出したかったんですね。まだ終わってなかったのかというふうに、二部構成にしたかった。それが「2」という作品なんです。わざわざ単行本の最後に収録したのだから、続編という意味以外の意味も、当然込めているわけですが、それはこの短編集全体が、まんなかで二つに折れるような、そういう構成になっていることも示しています。
 「こっぺ」「座長と道化の登場」と、「人情の帯」「2」と、この2つのグループに全体の印象(さしあたって印象と呼びますが)は分けられるかなと思うんです。「文學界」掲載と「文藝」掲載、というわけではなくて、その語り方とか、陰影とかが。
 いま、二つのグループを二つの「と」でむすんだように、「こっぺ」は「こっぺ」で、ひとつの短編のなかで、二つに分裂するように書いています。げんみついうと、分裂が複数重ねてある。「座長」は、これはくっきり、四階と六階というふうに、階をへだてて、分けて書いてあります。そして、「人情の帯」と「2」は双子の関係になってる。「人情の帯」内部でも二つの話が語られる。

 作品どうしの似通った構成が、直したいという作者の欲望を呼び起こし、収録作としたのかもしれませんね。これは初出時に考えてたことではないですが、自作を再読していて、思えてきたことです。順番も、その題名のなかの、二つの「と」から、「と」と「の」に、ひとつの「の」から「2」(に)というふうに、言語的な運動がある。「に」はまさに、つぎに向かって動きをうながす、というように。


―― 「コップとコッペパンとペン」は何度読んでも、大変な力作・傑作であると思います。読み進めるという運動が、これほどスリリング足り得るものだということを、久しく失念しておりました。大変素朴な問い掛けになってしまい恐縮ですが、一体どうやって、こんな作品を書き上げるのだろう?とやはり思ってしまいます。福永さんは一編の小説を、どこから出発させるのでしょうか?。たとえばこの作品の場合は、まず何から思いつき、何から始めたのでしょうか?

福永 一行一行のつながりが、散文という世界で、どこまで飛ぶと、意味まで飛んじゃうか、意味まで飛んだとして、それはどんな状態か、どんな光景が見えるのかというのを自分で試しながら書いてったものですね。みずたまりを飛び越えたその足で、次に、ビルとビルのあいだを飛んでやろうと、文字通りの無謀な飛躍をもとめるみたいなものです。ほんとにそんなことすれば死んじゃうわけですが、言葉の上でなら、みずたまりを飛ぶことができればビルとビルのあいだも飛ぶことができる。それくらい大胆なことをしちゃう。別にこれは僕だけがやってることではなくて、作家はみんなやってるわけですね。批評家だって、やってると思う。
 で、そういうのがおもしろかったりするし、書き進めている作者も含めて読みながら迷子になって、言葉を追い、読者はけっきょく、自分で言葉を見つけている。自分に都合のいい言葉を見つけるのではなく、飛躍を経た、汗まみれの、混乱のすえにつかんだ自分の言葉を見つけていると思います。作品がそういう装置であればいいなあと思っているんです。


―― あらかじめ周到で精密な設計図(に類するもの)を用意してから、ありうべき完成形を見越して作業していく感じですか?。それとも書きながらのアイデアの修正や変更などもけっこう多いのでしょうか?

福永 書き下ろしの「2」のときもそうだったのですが、書下ろしなのに、直してる。さっき、既発表のものをなおしたくなって、というような話をしたけれど、単行本にするんなら、ここをこうして、こうやって、えいやそりゃ、というふうに、雑誌発表じゃなくなったから、単行本の、しかも最後に来るものとして、書き直していきました。完成形は、だから、どういう場でこの作品が読まれるのか、読まれ続けるか、という意味でなら、考えてますが、実際の案は、そのつどそのつど、書きながらの、直しの連続…。
 と書くと、まるでその直しの連続が、あたかも「意味」があるようにひびくかもしれないけど、たんにへたっぴなだけです。小説ってどう書くのかな、どう書いたら、小説じゃなくなっちゃうんだろう、じゃあ試しに…、なんて書き方をほんとにしているし、そういう関心でしか、書けない…。


―― ひとつの小説を書き上げるまでに時間のかかる方だと思いますか?。それとも執筆自体は割とスムーズに進むのでしょうか?。

福永 そりゃあ、もう、時間はかからないと思ってます。みんなが早すぎるんです。みんなどうしているんだろう。手伝ってもらってるんじゃないか。


―― 小説を書くということ、それを完成させるということは、福永さんにとって、物理的に/心理的に、ハードな作業だと思われますか? 書きながら呻吟なさったりもしますか?

福永 まあ、月刊誌ペースからいうと、遅いのかなという自覚はないではないんですが、もともと僕は季刊誌の出身だし、自分ではあんまり、かかってない気がする。推敲に推敲を重ねて苦悩のすえに提出というわけでもない(それは、読めばわかるか…)。これまでの原稿、ボツもふくめて、プリントアウトしたものがたくさんあまってしまって、それらは当然ウラがまっしろなわけですが、そのウラにいまは、次の作品を書いています。もったいないから。だから手書きで、そうすると辞書で漢字調べたり、めんどくさいけど、たまにウラをめくって、「これより、ましだ…」と自分を元気づけたりする(自分の作品で自分が元気づけられるなんて、なんて便利なんだろう)。だからぜんぜん作品作るのは、深刻な作業じゃないんです。また自分の字がこどもっぽいので、呻吟しようにも、笑ってしまうんです。
 全然おもしろいことが書けないなあ、ということはよく思いますよ。ありえませんが、一行一行全部おもしろくしたいと思ったりするんです。最後がおもしろいとか、だんだんおもしろくなっていく、というのがふつうでしょうが、また、そうであるべきだとは思うし、僕の作品もふつうにそうなっていたりするかもしれませんが、書きながら思うのは、全部おもしろくしたいということです。
 必ずいっぺんには書き終えることはできないわけで、途中まで書いて、翌日、途中から書き出す、すると、その書き出しとしての「途中」が僕の目の前にくる。もうそこから、おもしろくしたい、と思っちゃう。前後のながれを考えずに、それに後で直すのは目に見えているのだけど、「ここをおもしろくしなくてどうする!」と思って、アレコレ考え出してとまらなくなる、ということはよくあります。また最後にとっておこう、と思ったものを、全然最後じゃなく、すぐ使っちゃったり。
明日死ぬひとが、読者だった場合、明日読むところがおもしろかったらやだなあ、という考えもよぎったりする。


――いわゆるアイデアのストックみたいなことはなさっているのでしょうか?。もしなさっているのだとすると、それはどんな形を取っているのでしょう?

福永 ストックしたつもりが、翌日には進行中の作品のなかに入ってしまいます…。


―― 一部で物議を醸した「コップとコッペパンとペン」の冒頭の一文に典型的ですが、福永さんの小説には、一読して意味の捉えづらい、非常に謎めいた文章が紛れ込んでいることがあります。それは明らかに意図的な挿入だと思うのですが、その意図には大きく二種類の理由が考えられると思います。1)「一読して意味の捉えづらい、非常に謎めいた文章」などと読み手の多くに受け取られるであろうことを意識的に狙っている。2)実はよく読めば(あるいは「なにか別の読み方をすれば」)それは「意味の捉えづらい、非常に謎めいた文章」などではまったくなく、すべては実のところ純然と可読である。この二種類は必ずしも背反するものではありませんが、はるか昔の文学理論家なら、たとえば「異化効果」などと呼んだかもしれないような実験的な諸要素が、これに限らず、福永さんの小説には多く見られます。質問を単純化して述べれば、それ自体が目的なのか、それともそれは手法なのか、ということになります。あるいは、その両方だとするなら、それらの割合はどのような感じなのでしょうか?(煩雑で答えにくい問いですみません)。

福永 こっぺの冒頭は、わざと謎めいた書き方をしています。
 と、この書き方は、全然謎めいてなくて、かっこわるいですね。でもいいです。なぞっぽくしようと、思って書いたんですから。最初にもってきたのは、どさくさまぎれのような段落が、どこにも置き場所を見つけられない、いちばんいい場所だからです。電柱の陰から読者をワッとおどかすような言葉というか…。たとえていえば、そこで読者はそれまで両手に持ってたものを、手放してしまう。その空いた両手には別のものが手渡される。たとえばこんがらがったひもとか。読者は両手に、こんがらがったひもみたいな、この冒頭をもったまま、読み進めていくことになりますよね。本当は、言葉は頭のなかにあり、両手には本を持っているわけですが。
 そうしてどさくさまぎれに持たされたなぞめいた文が、読み進めていくうちに、なじんできて、愛着がわいてくる。途中でふたたび現われた謎の文を、今度は自分からひろってしまうかもしれない。けっして意味としてはとおらないまま、終わるのだけれども、なぜかもう捨てられなくなる、そういうふうにしたし、なっていると思います。
 僕は再読してもたのしめるように書いているつもりですが、再読すると、またちがったとらえかたになるかもしれませんね。再読したら、前よりわからなくなっちゃった、ということも、あるかもしれない。そういう意味で、割合を出すのはむずかしい。


―― 「座長と道化の登場」は一種の怪談とも読めますね。これはもしかしたら、福永信の「内田百閨vなのかもしれない、とも感じたのですが(とりわけラストが)、どうなのでしょうか?

福永 内田さんの作品はちょっとしか読んでないので、よくわかりません。内田さんに読んでもらいたいけど、もう死んでるし、こういうのは、残念ですよね。僕は読めるけど、彼は読めないわけだから。どうしようもない。影響なんて不公平な言葉ですよねえ(佐々木さんは使ってないですが)。


―― 「人情の帯」と、書き下ろしの「2」(これは「人情の帯2」ということですか?)は姉妹作ですが、当初から続編?を予定されていたのでしょうか?「2」を読んでしまうと、これがなければ「人情の帯」も真には生きないと感じられてしまったのですが……。

福永 もう答えてしまっていますが、せっかくなので2度くりかえすと、よく文芸誌の短編の末尾に、「連作のうち」とか、「連作 その2」とか、書いてる作品があるでしょう。目次には、短編だと思われる書き方をされながら、読み終えると、「連作のうち」になっている、そういうものがありますね。
 慣習なのだと思いますが、これを見て、へえ、と思ったんですね。これは何を意味しているのかな、それだけを読んだ読者に「これは連作のうちのひとつなんですよ」ということを指示しているのに、ほかの連作がどういうものだかは、わからないわけですね。ただ、読者は「連作のうちなのかあ」ということだけ、思う。またその小さな記載は無視できず、思わないこともできない。ラストの、いちばんいいところ(?)に書いてあるんだから。もうその短編は独立したものではなく、「連作のうち」にイメージとして、組み込まれる。イメージが、読者をつつんでしまう、そのありかたに、ちょっと興味があったんですね。戦後の美術に、記号的なタイトルが多かったりしましたが(「WORK-004」とか)、そういうのを思い出して、ほほう、と思ったりしたんですね。
「人情」は、末尾に「連作のうち」とは入れていませんが、担当編集者とは、これはつづきがあるんだといった話はしていました。相互に補完する内容だということも、話したと思います。実際に、つづきを感じさせる終り方でもあると思っていますが、相互に独立した短編でありながら、ある前提がくりこまれている、そういう作品をやってみたかったということです。ひとつの短編を途中で読み終えよ、とは、作者はもとめられないので、しかしそれと同じような効果がでないかな、と。
 たとえば「人情」だけで完結したと思っている(それはそれで間違いでは全然ない)読者と、「2」が続編であると知って両方読んだ読者の「人情」とでは、ちょっとちがうわけです。「人情の帯」というもともとの初出の作品に対するとらえかたが。雑誌「文藝」の読者と、単行本「こっぺ」の読者のちがいがそこにある、ということになります。それぞれの場を使い分けたいということですね。


―― 福永さんの小説作品は、とにかく一作ごとに趣向がかなり異なっていて、あたかも「同じアイデア/手法を二度と使わない」という難儀をご自分に課してらっしゃるような印象を受けてしまいます。これも三つ前と似たような問い方になってしまうのですが、それは実際に福永さんにとってある種の「課題」としてあるのか?、それともあくまで個々の試みと取り組みの「結果」なのか、どうなのでしょうか?

福永 単純にひとつ書いたらそれでもういいわけで、ふたつめは、まったく別のものを作るしかない。そうでないと、それはふたつめとはそもそもいえないでしょう。紙ももったいない。読書する時間だって、無限じゃないないんだから。寿命だってそんなにのびてないじゃない。
 むろん、いろいろやりつくされているわけで、新しいことはない、ということはよくいわれることです。そのとおりかもしれない。だけども、そうじゃないかもしれない。僕は後者の可能性を思って作ってます。少し単純かもしれませんが。小説にかぎらず、現代の絵画だって、いろいろやりつくされて、また具象かよ、とか、まだ抽象かよ、とかいわれながら、個々の作家は、具体的に何枚も描き、ドローイングをつづけることで、ひじょうに小さいかもしれないけれども、見落としていた可能性を探求している。やりつくされているとしても、くりかえしくりかえしトライすることで、ほんの小さなものかもしれないが、ある日、ひずみが、生じるかもしれない。そのひずみが、大きく開くことがあれば、大きな芸術の可能性が見えるかもしれない。


―― にもかかわらず、当然ながらやはり福永作品は、同じひとりの書き手によって生み出された小説としての共通する何かを色濃く持っていると思えます。それを非常に散漫な印象で述べると、小説という構造/形式を用いて、一種の「位相空間」が虚構されていて、そこに一本の、もしくは複数の「線=ベクトル」が走っている、という感じ(?)なのですが、ざっくりと、いわば「小説」で「トポロジー」をやっている、という感想について、何かご意見があれば一言、二言……。

福永 これは自分でもわからない。なにしろ、まだ始めたばかりなので、わかりようがありません。また、わかってしまったら、これからの展開はないような…。
 ただ、たしかに小説というかたちをもとに、あれこれやっているなとは思います。詩じゃないし、美術でもない。小説という粘土をこねこねやって、こんなかたちになった…という感じかな。どんなにちぎっても粘土は粘土だけど、ほどよい大きさっていうのが文芸誌などではあるみたいですね。これ以上小さいと、粘土に見えないじゃないか、はなくそみたいだ、とか。これ以上大きくなると粘土じゃなくて、彫刻だ、削れ、とか。けれど、僕は粘土が粘土でありながら、粘土に見えない瞬間をさがしていきたいな、と思っています。はなくそ、上等だ、と。
 粘土は、誰でも経験あると思いますが、髪の毛がまじったり、ごみをまきこんだり、指のあとを残しながら、あるかたちになって、ずっとそのままでもない。かたいようで、やわらかく、すぐに別のかたちになりますね。かたちは記憶の中に焼き付けられる(それもまた、時間が経過するとゆれうごくわけですが)。粘土はまたかたちを変えて次の作品になったり、今回のように、こまかな修正をほどこした収録作になったりする。ひとりの作者としてひとつながりのものが仄見えるとすれば、使ってる粘土はずっと同じで、再利用しているんだということですね。


―― ジョン・スラデックというSF/ミステリ作家が、パズルを小説にしたような小説を多数、発表しています(邦訳にはサンリオSF文庫絶版の『スラデック言語遊戯短編集』があります)。以前何度か、福永作品はスラデックとどこか似たところがあると感じたことがあるのですが、しかしそれは表面上のことで、よく考えたら実は両者はまったく似ていない、むしろ向きが正反対なのかもしれない、とも現在では思えます。僕の認識では、少なくとも福永さんはけっして、まったく「パズルを小説にし」てはいない。しかしにもかかわらず、「まるでパズルみたいな」というような評価が福永作品に対して、しばしばなされてしまうのも無理はない、と思える所もあるのですが、ご自身ではこうした「小説=パズル説」を、どのように感じられますか?

福永 パズルだとしたら、別のパズルのピースがまじっているような、それが偶然にもはまってしまうおどろきとか、そういうことがあれば、僕が書いているところと近いかもしれないです。
 あるフレームを設定して、そこに無理矢理、矛盾する(かのような)ものを置いてみると、不思議な不均衡がたちあらわれたりする。その不均衡を修正しようとして、別の不均衡を生み出す、というのが、僕にかぎらず、小説の言葉の連鎖だとも思うのですが、パズルはだんだん均衡を得ていくわけだから、方向性からいうと、逆かな。
 それから、『スラデック言語遊戯短編集』、今度貸して下さい。


―― 村瀬恭子さんとの『あっぷあっぷ』という作品もありますし、福永さん自身が美術系の大学のご出身で、現在もさまざまな形で「アート」との関わりも深いことから、しばしば「福永信は、アート的なアイデアを小説に導入している(文学で美術をやっている?)」的な紹介をされています。しかし考えてみれば、これは非常に曖昧な言い方です。福永さんご自身の中では、いわゆる「アート=美術」と「小説」とは、どのような関係を結んでいるのでしょうか?

福永 そもそも美術の好きなところは、好き勝手にてぶらで見れるところなんです。美術館でもギャラリーでも、見たいだけそこにいてもいいし、サッてすぐ、立ち去ってもいい。また戻ってきてもいい。持って帰れないから(インスタレーションはとくに)、なんとか記憶しようともする、でも、記憶できないなあと、そのことにびっくりもし、また感動する。その場をいきいきとすごす覚悟が自然とできるわけですね。
 本はなまじ所有できるので、あとで読めばいいとか、記憶しようとしなくても、あとでもう一度読もうとか、そうなりがちですよね。だけど、所有することで、自分の生活環境にその本が、作品が常に侵入する、そこがおもしろいところだなと思います。つまり、自分の本棚のある場所がギャラリーであり、美術館である、と。僕が思いつく両者の関係というのは、こんなとこかな。


―― 高い注目を集めた『アクロバット前夜』以来、これほどの長い歳月が過ぎているのにもかかわらず、福永信という作家の存在感は「文学シーン」(?!)において、いや増していると思えます。福永さんから見て、現在の「(純)文学=文芸誌的世界=文壇?」といった場は、いかなるものに映っているのでしょうか?

福永 たくさんの書き手が出てきて、いいんじゃないかと思う。もっともっと出て来い!と思う。まだまだ足りないくらいなんじゃないかな。もっともっと書き手が出てくればいいなあ。
 おもしろい編集者も、装丁家も、もっと出て来い、とも。


―― 長嶋有さんや柴崎友香さんらとの同人誌「メルボルン1」(毎号名前が変わるそうですね)はとても素敵で有意義な取り組みだと思います。この時代(?)に「あえて同人文芸誌」を出すということには、何らかの積極的な動機があるのではないかと思われるのですが……?

福永 ありがとう。僕は文芸誌という雑誌は、すごいな、と思っているんです。あれは作品集でしょう。対談やちょっとしたジャーナリスティックな記事もありつつ、評論をふくめ、作品じたいがメインだというのが、まずすごい好きなあり方なんですね。実際僕も、高校生のとき、図書館なんかで読んで楽しんでた。高橋さんの「正義の味方「超人」マン」なんか、ほんと笑っちゃった。で、その翌月に渡部直己さんが、「どうどうとスランプに陥っているとことがたのもしい」とか、時評でコメントする。これは雑誌でしかありえないし、作品があるからできる場所だ、すごいなあって。
 「メルボルン1」は、同人誌ですし、不定期なので、定期刊行の文芸誌とはおのずとそのあり方はことなるのですけれど、作品を介して、また読まなくても、絵や装丁で読者と出会う、そういうことが、やりたいということなんです。


―― 可能であれば、以下の何人かの同時代の小説家について、なるべく短くコメントをしてくださいますか?、一言でも結構です。

長嶋有
柴崎友香
阿部和重
保坂和志
高橋源一郎
中原昌也

福永 全員、僕、読者だから。短くは無理だなあ。どうしよう。こまったな。たとえば、柴崎さんは、おもしろいんだけど、おもしろいという批評家の意見はぜんぜんおもしろくない。僕にはね。描写の細部が写真のようで、とか。それはそうなんですが、作者が写真に興味があるとかいってることをそのまま受け取ってるみたいな、そういうのはちがうんじゃないか、と。もっとちがうところが柴崎さんのよさだと思うんだけど、まだわからない。たぶんだれも彼女の書く風景を共有し得なくなってから(四百年後とか)の方が、おもしろいんだと思う。そう思いつつ、読み続ける…。で、短く全然書けない。


―― 最後の質問です。福永さんにとって、「読者」とは、いかなる存在でしょうか?ご自分の小説の「読者」に何かを求めるとしたら(求めざるを得ないとしたら)、それはどういったことでしょう?(あるいは「何も求めない」?)

福永 僕は作品をどこか、手紙みたいに思っているんですね。最初の短編が書簡体だったのですが、そのほかのも、とくに手紙がモチーフでなくても、そう思っているところがあります。
 手紙は言葉のつらなりでありながら、実際に行為をうながしたりするでしょう。メールだったら、明日の待ち合わせをしたり、封書や葉書だったら、今度会いましょう、と書くことができる。ほんとに会うことはないかもしれないけれども、約束することができる。そしてある日、今日、会おうと電話をかけるかもしれない。そういう行為をうながす力が手紙にはある。現実とのつながりを手紙は消すことができない。ただ、手紙みたいに小説を思っているといっても、実際は、宛名が書いてあるわけではないです。また、僕は経験したことは全然書いていないですね。頭のなかで考えた、くだらないことばかり、この世にいない人物たちの行動やセリフを書いているわけです。自分の経験だけは書くまいと思っている。だけど、そんな人工的に作った世界でも、手紙なんだと思ってやっていると、現実という影がしのびこんでくるんです。
 それは現実にある、さわれないものでありながら、手触りのある紙の上に姿を見せ、重さのないものでありながら、気持ちを軽くしたり重くしたりする、言葉の、ありえない「影」なのかもしれません。たとえそうだとしても、その陰影をつけることができるのは、僕ではなく、手紙の受取人である読者であって、僕には確認することはできないわけですが。

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