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立読み
理解という名の愛がほしい
――おとなの小論文教室U。

「ほぼ日刊イトイ新聞」大人気コラムの単行本化


ここから、人とつながる

孤独の哀しみをのり越えて、
ひらき、出会い、心で通じ合う、
自分にうそをつかないで、人とつながる、勇気のレッスン。

連鎖

 もうすっかりよくなったのだが、こんなに人間好きな私が、一時期、人間嫌いになっていたことがあった。
  
 悪意のメールが来たのだ。
 
 メールでは、ほんの小さな批判でも、予想以上に、身体にこたえる。文章の教育をやってきた私は、書き手の根本思想をよくも悪くも、敏感に受け取ってしまう。
 そのときのそれははっきり悪意だった。私は、生まれてはじめてはっきりと人の悪意を浴びたような気がした。
 「なんで、こんなこと言われなきゃいけないの? 私はなんにも悪いことをしていないのに」
 とは思わなかった。
 自分がこの人を攻撃したのだろうな。
 自分が、コツコツとコラムを書きつづけること。そのこと自体、人によっては攻撃ととらえる人もいる。いや、ある人が、必死で自分を生きている。そのことだけで、すでに攻撃だと感じる人はいる。
 生きてるだけで、すでに攻撃。表現する以上、覚悟をしなければ。
 私は、孤独とか、つらいことへの耐性はわりにある。同情も心配も、されるのが大嫌いな私は、だれにも言わず、自分で消化できるとぐっとがまんした。
 ところが、メールをひらくことが恐くなり、まっすぐメールを読むことが恐くなり、しだいに人と会うことが億劫になっていった。
 たったこのくらいのことが、いったいなんだっていうんだ。
 予想以上に、弱かった自分、それもショックで、受け入れがたい事実だった。
 思ったほど自分は強くはないんだな。
 しばらく人との距離をおいていれば、一人じっと耐えれば、立ち直れると思った。
 ところが、その、いちばんそっとしておいてほしい時期に、よりによって、母が田舎から出てきてしまったのだ。
 私は、自分の腹の中で、受け止められず、消化しきれなかった悪意を、母にあたる、という最悪のカタチで発散してしまった。
 母を泣かせてしまった。
 母は顔が引きつっていた。
 
 母がいったい何をしたろう?
 
 あたられても、母は、私を決して攻撃することはなかった。
 私にご馳走をしてくれ。一人買い物に出ても、自分のものなどほとんど買わず、私にハンカチを買い。親戚のだれだれさんに、ご近所のだれだれさんにと、人のものばかり、つつましいけれど、綺麗で相手を思いやったお土産ばかり、買ってきては、ほんとうにうれしそうに見せてくれた。
 私を励まして、つとめて明るく帰っていった。
 そんな人を私は傷つけたのだ。
 私は、自分の持ちきれなかった悪意を、自分より弱い、なんの罪もない母にぶつけてしまった。そのことにさらに落ち込んだ。
 どうして、悪意は、強いものから、弱いものへ、権力のあるものから、ないものへ、おとなから、こどもへと、はけ口を求めるのだろう?
 そうして、最後は、私のような意地の悪い人間のところをするっと通り抜け、こどもとか、お年寄りとか、まったく罪のない人のところへいく。
 ふと、田舎に帰った母は、父にあたるだろうか、と思った。そうしたら、父はそれをどうするだろうか?
 メールから来た顔も知らぬ人の悪意、それが、私に来て、私が弱さで持ちきれず、母にぶつけ、それを母が持ちきれず、帰って父にぶつけ……、
 
 悪意は連鎖する。
 
 そう思ってはっとした。私に悪意を向けた人、その人の悪意はどこから来たのだろう?
 その人も、私と同じように、思ったほどは強くはない人間で、私と同じように、消化できない悪意を受けて、それを私にリレーしてしまったとしたら。
 私の頭を、私がいままで傷つけてしまった人々、私のせいで人に不快を与えてしまった数々の経験が駆けめぐった。
 あのときの、またあのときの、自分が人に与えたストレス、それが、めぐりめぐっていま、自分に返ってきているような気がした。

続きは…… 『理解という名の愛がほしい』