河出書房新社｜立読み｜カレーソーセージをめぐるレーナの物語

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味覚が人生を変える
それは終戦直前の一九四五年、敗色濃いナチス・ドイツのハンブルクで、
ひとりの女性が若い脱走兵を家にかくまうことから始まった

Modern&Classic
カレーソーセージをめぐるレーナの物語

ウーヴェ・ティム　浅井晶子訳

　僕が最後にブリュッカー夫人の屋台でカレーソーセージを食べたのは、ゆうに十二年以上も前のことだ。彼女の屋台はグロースノイマルクトにあった。港の界隈にある広場で、強風が吹きつけ、汚れていて、中世風の荒削りの丸石で舗装してある。ごつごつした木が何本か立っていて、公衆便所と三軒の屋台には浮浪者が集まってプラスティックの容器でアルジェリア産の赤ワインを飲んでいる。広場の西側では保険会社のビルのガラス張りの正面入り口が灰色がかった緑色に光り、その後ろのミヒャエリス教会の塔が、午後になると広場にその影を落とす。ここは戦争中の爆撃で徹底的に破壊された地域だった。爆撃を免れた通りはほんの数本だが、そのうちの一本、ブリューダー通りに、僕の伯母が住んでいて、子供のころよく訪ねたものだった。ただし、こっそりと。父が彼女を訪ねることを禁止していたからだ。この地域は小モスクワと呼ばれていて、繁華街からもすぐだった。
　その後、用事でハンブルクを訪れるたびに、僕はこの界隈に足を運び、いくつもの通りを歩き、何年も前に死んだ伯母の家の前を通り過ぎ、そして最後に――そしてこれが本来の目的なのだが――ブリュッカー夫人の屋台でカレーソーセージを食べてきた。
　いらっしゃい、とブリュッカー夫人はいつも声をかけてくれた。まるで僕がつい昨日もここへやってきたかのように。いつものとおり、一本だね？
　彼女は大きな鋳鉄製のフライパンをかきまわす。ときおり海からの突風が、屋台のちっぽけな庇の下に霧雨を吹きよせる。庇というのは灰色と緑色のまだらになった野戦用の防水シートでできているのだが、あちこち穴だらけなので、上からさらにビニールテープを張りつけてある。
　ここはもうだめだよ、とフライドポテトを入れたアミを煮えたぎった油から引き上げながら、ブリュッカー夫人は言う。そして、誰がこの界隈から引っ越していき、誰が亡くなったかという話をする。名前をきいても僕にはまったくわからない人たちが、卒中の発作だとか、帯状疱疹だとか、老人性糖尿病だとかにかかったり、オールスドルフの墓地に葬られたりした話だ。ブリュッカー夫人はそのころもまだ、以前伯母が住んでいたのと同じアパートに暮らしていた。
　ほら見て！　彼女は僕のほうに両手を差し出し、ゆっくりと裏返す。彼女の指の関節は太く腫れあがっている。痛風だよ。それに目もだめになってきてるんだ。来年は、と毎年のように彼女は言う。もう店をたたむよ、永久に。彼女は木製の挟み器を手に取り、それでガラス製の容器から自分で漬けたピクルスをつまみ出す。これ、あんた子供のころから好きだったよね。僕は毎回ピクルスをおまけしてもらう。ミュンヘンなんかでよく我慢できるねえ。
　向こうにもソーセージの屋台はありますよ。
　僕のこの言葉を、彼女は待ち受けている。というのも、この言葉を聞くやいなや彼女がこう言うのが、僕らのあいだの決まった儀式のようなものになっているのだ。そりゃあね、でも向こうにもカレーソーセージはあるのかい？
　いえ、少なくともおいしいカレーソーセージはないですね。
　ほらごらん、と彼女は言い、熱くなったフライパンにカレー粉を少しふりかけ、それからナイフで子牛のソーセージを輪切りにする。白ソーセージなんて、気色悪い食べ物だねえ、おまけに甘いカラシをつけるときてはね。ああ気持ち悪い。彼女はこれみよがしにうううっと言って体を震わせると、ケチャップをフライパンにぶちこみ、かき混ぜ、黒コショウを少し加えて、それからソーセージの輪切りを周囲に細かいひだのついた紙皿に移す。これがまともな食べ物ってもんだよ。風に関係があるんだ。ほんとだよ。鋭い風には辛いものがいいんだ。
　確かに彼女の立ち食い屋台は、風が強く吹きつける場所にあった。ビニールテープは屋台を固定している部分に裂け目が入っているし、強めの突風が来るたびに、大きなプラスティック製のテーブルが倒れた。それは宣伝用にアイスクリームの写真が印刷してあるテーブルで、そのアイスクリーム模様の上で、客は肉だんごや、それにもちろんこの天下一品のカレーソーセージを食べるのだ。
　この屋台はたたむよ、永久にね。
　彼女は毎回そう言うのだが、僕はまた次の年も彼女に会えることを疑っていなかった。けれどその次の年、彼女の屋台はなくなっていた。
　そういうわけで僕はもうその界隈に足を運ばなくなり、ブリュッカー夫人のことを思い出すこともめったになくなった。ただほんのときたま、ベルリンやカッセルやそのほかあちこちの街の屋台に立ち寄るときには彼女のことを思い出したし、それにもちろん、いわゆる「通」のあいだでカレーソーセージが生まれた場所と時代をめぐって論争になるときには、必ず彼女のことを考えた。カレーソーセージの誕生について、彼らのうちの多数、いや、ほとんど全員が、五○年代後半のベルリンという説を支持していた。それに対して僕はいつも、ハンブルク、ブリュッカー夫人、そして五○年代以前の時代を主張した。
　ほとんどの者は、カレーソーセージは考案された食べ物だという考えに疑いを抱いていた。しかもそれが特定の人間によって作り出されただって？　カレーソーセージは神話やメルヘン、うわさ話、伝説みたいなもので、つまり特定のひとりじゃなくて、たくさんの人間が関わって作り上げてきたんじゃないのか？　肉だんごを発見した人間がいると思うか？　ああいう食べ物は、たくさんの人間によって作られてきたものじゃないのか？　ゆっくりと、与えられた条件の論理に従って発展してきた食べ物、たとえば肉だんごの場合ならこうだ。残りもののパンはあったが肉はほんのちょっぴりしかなかった。けれどなんとか腹を満たしたい。そこでこのふたつの食材に手を伸ばす。さらにそこに肉とパンを一緒にこねまわしてみたいという欲望が加わる。多くの人間が、同時にさまざまな場所で同じことをしたにちがいない。そしてさまざまな名前が生み出された。肉だんご、ハンバーグ、ひき肉ステーキ、「うさぎの耳」や「肉ビスケット」なんていうものもある。
　たしかにそうかもしれないけど、と僕は言った。でもカレーソーセージは別だよ。名前からしてちがうだろ、いちばん遠いものといちばん身近なものとが結びついた名前。「カレー」と「ソーセージ」。そしてこの組み合わせ、まさに発見というにふさわしいこの組み合わせは、ブリュッカー夫人によって、四○年代半ばごろのいつかに、生み出されたんだ。
　僕の思い出は次のようなものだ。僕はブリューダー通りにある伯母の家の台所に座っている。そしてその、壁の下部は水洗いできる耐水ペンキで、上部は象牙色のワニスで塗られた薄暗い台所には、そのアパートの最上階、屋根裏にあたる部屋に住んでいたブリュッカー夫人も座っている。そして彼女の屋台にやってくる闇市のディーラーや、港湾労働者、水夫、大悪党や小悪党、売春婦やそのヒモたちについて話してくれる。なんとさまざまな話があったことか。彼女の話に出てこないものなどなかった。ブリュッカー夫人は主張していた。秘密は彼女のカレーソーセージにあるのだと。その味が舌を滑らかにし、まなざしを鋭くするのだと。
　僕の思い出とはこういうもので、僕はのちにそれを検証しはじめた。親戚や知人に質問した。ブリュッカー夫人？　彼女のことをまだよく覚えている者は何人かいた。彼女の屋台のことも。でも、彼女がカレーソーセージを発見したかどうかだって？　どうやって？　それについては、誰も僕に答えることはできなかった。
　ふつうならどんなことでも細部にいたるまで記憶に刻み込まれている僕の母さえ、カレーソーセージの発見についてはまったくなにも知らなかった。どんぐりで作る代用コーヒーは、いろいろ試作していたよ。なにしろ当時はものがなかったからね。戦争が終わって彼女が屋台をはじめたころには、どんぐりコーヒーはただでサービスしてたよ。母はそのどんぐりコーヒーのレシピまで覚えていた。まずどんぐりを集め、オーブンに入れて乾かし、皮を取り除いて中の実を細かく砕いて炒れば、できあがり。そこに残り物の代用コーヒーのブレンドを混ぜる。そのコーヒーの味は少し酸っぱかった。長い期間飲み続けると、だんだん味覚を失ってしまうんだよ、と母は主張した。どんぐりコーヒーは、舌を徹底的にだめにしていくんだよ。だから、どんぐりコーヒーを愛飲していた人は、飢餓の冬だったあの一九四七年、なんとおがくずを混ぜたパンを焼いて、それをまるで最高級の小麦粉で焼いたパンかなにかみたいに味わって食べることができたんだよ。
　それから、あの人の亭主のこともあったね、と母は言った。ブリュッカーさんって結婚してたの？　ええ。でもある日亭主を家から放り出しちゃったの。
　どうして？
　その理由は母も知らなかった。

訳者あとがき

　カレーソーセージ。ほとんどの読者には耳慣れない言葉だと思う。それがどんな食べ物なのか、本書を読まれて想像が膨らんだのではないだろうか。カレーソーセージは、ベルリン、ハンブルクなど北ドイツ地方の庶民の味の代表で、普通は道端の立ち食い屋台で買う。二百円くらいの安価な食べ物で、日本でいえばさしずめたこ焼といったところだろうか。本書にもあるとおり、吹きさらしの立ち食い屋台には上流階級の人間は寄り付かない。
　そんな庶民派のカレーソーセージだが、その誕生の背後にはドラマがあった、と本書は語る。戦争と復興、嘘と真実、愛情と憎しみ――ひとりの女性の人生が凝縮され、カレーソーセージは生まれたのだ、と。人生という重いテーマと、庶民の味カレーソーセージとの滑稽なまでの不釣合い。その意外性が本書の魅力のひとつだ。
　カレーソーセージは歴史の流れの中で自然に発展してきた食べ物ではなく、ハンブルクのひとりの女性が発見したものだ。そう信じる「僕」は、発見のいきさつをきくために、いまは八十歳を越して老人ホームに暮らすその女性レーナ・ブリュッカーを訪ねる。しかしレーナは簡単に答えを明かしてはくれず、一見カレーソーセージとはなんの関係もなさそうな話を始める。
　それは終戦直前の一九四五年四月、敗色濃いナチス・ドイツのハンブルクに暮らしていたレーナがひとりの水兵を家にかくまうところから始まる。夫に去られ、子供も戦争や銃後の奉仕に動員されてひとり暮らしをしていた当時四十代のレーナと、二十代の水兵へルマン・ブレーマーとの秘密の同棲生活が始まる。それからすぐにハンブルクは降伏。けれど彼をまだ故郷の妻と子供のもとには帰したくないレーナは、戦争が終わったことを彼に隠し続ける。脱走兵は発見されれば死刑になる。そのためブレーマーはレーナの家に隠れ続け、レーナが次々に工夫して作る代用食を食べながら、レーナの語る「戦争の進捗状況」に耳を傾け、「戦争の終わる日」を待ち続ける。どんぐりのコーヒー、にせの蟹スープ。外の世界の出来事を知る手段もなく、家に閉じこもったまま苛立つブレーマーは、ある日自分の体の異変に気がつく……。
　カレーソーセージ発見の経緯がそのまま、戦後ドイツの歴史、そしてひとりの女性の歴史に重なってくる。戦争が生んだ悲恋の物語であるにもかかわらず、本書が大げさな感傷に陥らずにすんでいるのは、淡々とした文体もさることながら、レーナという女性の無骨とさえいえる現実的で実直な人柄に負うところが大きい。不器用だがしたたか、現実主義者だが決定的なところで情にもろく、正義感が強いが決して聖女ではない。若い女性の華やかな美しさとは違う、歳を重ねた女性の、大地に根を張ったたくましい魅力。その魅力にはカレーソーセージと相通じるものがある。どちらも普段は物語の主役として表舞台に出ることはないが、誰の目にもとまらないところでしっかりと自分の存在を確立している。
　存在感あふれる脇役たちも印象深い。筋金入りの国家社会主義者ラマース、日和見主義者フレーリヒ博士、無害な隣人を装いながら裏の顔を持っていたエックレーベン夫人、ドイツの勝利を伝えるニュースの前には料理に細工をしてアナウンサーに吐き気を催させるコックのホルツィンガーなど、それぞれを主役にした小説を読んでみたいほどみな生き生きと描かれている。レーナの人生に深く関わる二人の男性も見逃すわけにはいかない。女好きで遊び人、不誠実だがハンサムで粋だった夫。そしてレーナの息子であってもおかしくない年齢の脱走兵ブレーマー。レーナがひと目で恋に落ちたブレーマーは朴訥としており、誠実そうで、一見彼女の夫とは正反対。ふたりの出会いは運命的なものかもしれないが、関係の始まりはどこまでも現実的だ。レーナは経験を重ねた年上の女の貫禄で彼を誘惑し、一方の彼は戦場で命を落とすことを恐れ、発見されない可能性に賭けてレーナの家にとどまる。どちらにも打算があり、嘘があった。妻子の存在を隠すブレーマーと、戦争が終わったことを隠すレーナ。ふたりの関係はどこかいびつだ。けれどそこには少なくともレーナの側の純粋な気持ちがあった。結果的には罠にはめる行為であっても、その底には一途な愛情があった。女性としての性的魅力が年齢の前に色あせていくことを漠然と意識して、まるで最後の打ち上げ花火のような恋にのめりこむレーナ。けれど自身の嘘によって彼女は苦しむことになり、打算から無意識にせよあえて彼女の罠にはまったブレーマーも、その優柔不断の報いとして、それまで当たり前に備わっていた大切なものを失うことになる。
　この小説では、ドイツの文芸作品には珍しく、食べるという具体的、日常的な行為が主題として扱われている。レーナはブレーマーと知り合ったとき勝負をかけてとっておきのにせの蟹スープを作り、ホルツィンガーはその天才的な料理の腕を使って孤独なレジスタンスを展開し、ブレーマーは食べることに喜びを見出せなくなってはじめて自分の人生を見つめ直す。食べることは登場人物たちの人生にとって、単に空腹を満たす以上の大きな意味を持っている。料理の秘密は香辛料にあるとホルツィンガーは言った。味気ないソーセージの輪切りがカレーという薬味によって魔法のように別物になるように、食べることで人生がどんなふうに別のいろどりを持つのか。それも、彼らが食べるのは決して高級レストランのフルコースや山海の珍味ではなく、粗末な代用食や、安価な庶民の味であるカレーソーセージだ。戦中戦後の貧しい時代、乏しい材料からどんなふうに工夫して、少しでも栄養があり、少しでもおいしいものを作るか。料理嫌いだったレーナが料理に情熱を見出したのは、不思議にもそんなやりくりの工夫が求められる厳しい時代に入ってからだった。その工夫の才能が、のちにカレーソーセージという大胆な発想の食べ物を生み出す基盤になる。
（訳者あとがきより一部抜粋）

Modern&Classic 『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』

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