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角田光代さんによる『くまとやまねこ』の書評!

2009.04.16更新

直木賞作家・角田光代さんによる『くまとやまねこ』の書評をご紹介致します。

『くまとやまねこ』湯本香樹実・ぶん/酒井駒子・え

  書評 角田光代

「ある朝(あさ)、くまは ないていました。なかよしのことりが、しんでしまったのです。」
これがこの絵本の、冒頭の文章である。
ひらがなの多いやさしい文章から、この絵本が、いわゆる「大人向け絵本」ではなく、子どもに向けて書かれたものだということがわかる。子ども向けの絵本で、死からはじまる物語というのは非常に少ないのではなかろうか。しかも絵はモノトーン。そういう意味で、私はこの冒頭にかすかな衝撃を受けた。
くまは、友だちの亡骸(なきがら)を花とともに箱に入れ、たいせつに持ち歩いては、何が入っているのかと訊かれるたび、蓋を開けて見せる。ことりの亡骸を見せられた動物たちは、当然のように戸惑い、そして死のかなしみを乗り越えるように諭す。
身近な人の死、というものが、いかに個人的な体験であるのかを、読んでいるうちに思い知らされる。わたくしごとで恐縮だが、インコを飼っていて、三年前、二年前と立て続けに二羽が死んだ。そのかなしみの深さは、人の死によって受けるものとほとんど変わらない。その静けさ、火が消えたような心許なさ、心に突如穿たれた空洞の深さ、対象がなんであれ、失うということはそうしたものを引き受けざるを得ないということだ。
酒井駒子さんの、静かで美しい絵は、読み手の私を絵本のなかにひっぱりこむ。背を丸め花を箱に入れるくまに、私は自分を重ねる。絵本のなかでひっそりと横たわったことりに、私は今までに失ってきた人や生き物を重ねる。くまがことりの死をだれとも共有できず、家に閉じこもり鍵を掛けてしまうとき、私は今まで自分が出合わざるを得なかった死が、私だけの荷であることを知る。この荷はだれも肩代わりしてくれない。重みを分かち合ってくれることもない。くまが、暗い部屋に閉じこもり、鍵を掛けてしまったように。
それでもある日、くまは、天気に誘われるように外に出る。そうしてやまねこと出会う。やまねこの弾くバイオリンの音に、くまはことりと過ごした日々をゆっくりと思い出す。モノクロだった絵に、まるで陽が射しこむように色が入る。オールカラーにしないところが酒井駒子という絵本作家の凄さだ。使うのはただ一色。死が背負わせた荷の重さは変わらない。けれどくまは、音楽に包まれてはじめて、その荷こそが、自分とことりがともに過ごしたことの証明であると知る。
湯本香樹実さんという作家は、これまでにも、小説のなかで死を扱ってきた。単なる小道具や記号としての死ではない、私たちが現実に味わう、未知でありながら確実にそこに在るものとして描いてきた。美化もしないし、忌むこともしない。取り去ることもしないし、生へのステップにもしない。そうして、子ども向けの絵本でも、ごまかしたりきれいごとに包んだりせずに、絵本が持たされている常識を静かにうち破って、避けがたく生々しい、しかし意味のある死というものを描いたのだと私は思う。どうしようもなく他者の死というものを含んでいる、私たちの生について描いたのだと思う。
この絵本を開いた子どもは、もしかしたら何か大切なものを失うということをまだ知らないかもしれない。けれど成長していく段階で、だれか、何か、近しい存在のものを失うとき、きっと思い出すのではないだろうか。かつて美しい絵本のなかで聴いたバイオリンの調べを、光の舞い落ちるようなくまの回想を。
そして、この絵本を開いた大人は、失うということを体験していればいるだけ、ちょっと自分でもあきれるくらいに泣き、そしてゆっくりと、その喪失が自分にとって意味するところを思うのではないか。ちっとも慣れることのできない荷の重さが、かつて自分が作り上げたいとしい関係性の重さと等しいことを、知るのではないか。

(『文藝 2008年 夏季号』より)

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くまとやまねこ

児童書

くまとやまねこ

湯本 香樹実 文 酒井 駒子

だって、ぼくたちは ずっとずっといっしょなんだ――友だちをなくし哀しみに閉じこもるくま。だが花咲く時は訪れて……感動の絵本。

  • 単行本 / 48頁
  • 2008.04.18発売
  • ISBN 978-4-309-27007-4

定価1,430円(本体1,300円)

○在庫あり

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