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芥川賞作家・藤沢周によるもう一つの巌流島 『武蔵無常』待望の刊行!

剣道を追い求める二人の男を描いたヒット作『武曲』。昨年行定勲演出で舞台化され
た『ブエノスアイレス午前零時』で話題の藤沢周さん。この作品で行定氏は先頃千田
是也賞も受賞しました。そんな藤沢さんの初の時代小説と言うことで、出版界は話題
騒然です。勝って、いかになる。殺して、いかになる......迷いと悔いに揺らぐ"もう一
人の武蔵"。己が殺人剣に倦みながら、剣を捨て、船の櫂を持って渡った"もう一つの
巌流島"を描き、鬼気迫る傑作です。担当編集からのメッセージをお届けします。

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藤沢周は藤沢周平と名前が一字違いである。もちろんお二人は無関係で、藤沢周は本
名だ。この業界では、いつか藤沢周が時代小説を書くのではと言う熱い期待があっ
た。伝説の編集長寺田博氏もまた遺言のように藤沢さんにチャンバラ小説を書くよう
言い残した。藤沢さんがどのようにしてこの小説を書きあげたのかをドキュメント風
に綴ってみよう。


藤沢周は書きあぐねていた。執筆を決意してから10年近くが経っていた。あいだ
に、地元の道場で剣道を始めた。剣道小説『武曲』も書き、ヒット作になった。順調
に段位を重ね、現在四段。高段者となった。藤沢は、試行錯誤を重ねながらすでに冒
頭を書き始めてもいた。しかし、執筆はぱたっと止まったのだ。

藤沢には武蔵の怒りの声が聞こえていたのだ。「お前は許さん」。武蔵の声が絶えず
聞こえてくるのだ。藤沢はそのたびに、何度も書くのをやめようと思った。自分自身
の抱える闇、はぐれている部分と向き合うためにこれを書き始めた。けれども、それ
を武蔵に託して書いていることに対し、「俺を使って書きやがって」と武蔵が言って
いるのを感じていたのだ。

父は高名な柔道家。自身も大学まで柔道に励んだ。その藤沢が剣の道にはまったの
は、ひょんなきっかけだった。息子の付き添いで行った道場でおじいさん先生から声
をかけられ竹刀を振ってみた。すると未経験の藤沢に先生は「あなたやってたね?」
と声をかけてきた。否定すると「やったら大変なことになるよ」と勧められたのだと言
う。

その気になった藤沢は、早速防具を購入し道場に通い始める。初段になったら一年修
行期間を経て二段を取り、二年の修行期間を経て三段。三年の修行期間を経て四段ま
で、最短で来た。やはりただ者ではなかった。そんな藤沢が剣の道に感じる深みと比
例するかのように、藤沢の執筆に対する武蔵の怒りは、強くなっていった。

藤沢には一乗寺下り松で吉岡一門が頭領に立てた幼い子どもを武蔵が迷わず切り殺し
た事への怒りがあった。藤沢もまた武蔵を許せなかったのだ。武蔵は、剣をどういう
ふうに求道に転化させるかを考えていた筈だ。しかし、全然違う部分で、獣のような
悪魔のような何かが彼に剣を振るわせている。藤沢がそれを書こうとしていること
を、武蔵は嫌がっているのだ。

そんな藤沢にある日、ようやく赦しが訪れる。僧の愚独を斬り殺す場面を書いていた
ときの事だ。武蔵が斬ったのは五輪塔だと気づいた時、ようやく藤沢は武蔵の許しを
得た、と感じた。藤沢は喜びのあまり、思わず書斎を出て階段を駆け下りた。

多くの作家が語るところによれば、作家は小説を書き終えると程なくして、あれほど
生き生きしていた登場人物や作品の世界は、幻のように消え去ってしまうと言う。し
かし、今回藤沢のもとにはいまだ宮本武蔵の存在感が濃厚に残っているというのだ。
これはいかなることか。もしかすると、宮本武蔵は藤沢に、その先を書き継ぐよう
に、と伝えようとしているのかもしれない。

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【関連書籍】
藤沢周『武蔵無常

藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』(河出文庫)

(初出:『かわくらメルマガ』vol.98 芥川賞作家・藤沢周によるもう一つの巌流島 『武蔵無常』待望の刊行!)