かわくらトップページへ 過去のかわくらメルマガ掲載記事過去のかわくらメルマガ掲載記事一覧かわくらアーカイブを購読

過去のかわくらメルマガ掲載記事
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ミラン・クンデラ『無意味の祝祭』解説 西永良成 

発売になったばかりのミラン・クンデラ『無意味の祝祭』。
こちらはフランスで数十万部突破し、30ヶ国で翻訳されているベストセラーとなって
います。
今回は、本書の翻訳者、西永良成さんの解説をお届けします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ミラン・クンデラ『無意味の祝祭』解説          西永良成  
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

(この解説は、本来は『無意味の祝祭』巻末に掲載すべき内容ですが、著者クンデラ
氏がご自身の小説には本文以外の要素をつけることを認めない方針をとられているた
め、メールマガジンの形でお届けいたします──編集部)

 この二〇一五年四月には満八十六歳になるミラン・クンデラが、亡命者の祖国帰還
の現実的な困難という歴史的主題を扱った小説『無知』(二〇〇三年)を出版してか
ら十年過ぎて、ようやく新作『無意味の祝祭』を発表した。この間、新しい評論集こ
そ二〇〇九年に『出会い』を刊行(邦訳二〇一二年河出書房新社刊)したものの、か
ねてからみずからの作品の総決算ともなりうる最後の創作を準備し、それが一種の
「阿呆劇」になるだろうと周囲に漏らしていた。私も二〇〇九年十二月のパリで、彼
自身の口からこの作品が一応完成したとこっそり打ち明けられて以来、その刊行を
ずっと心待ちにしていた。ただし、もしかするとそれを死後出版にするつもりではな
いかという多少の危惧があったのも事実だが。ところが図らずも、彼の作品が二〇一
一年にガリマール社の権威あるプレイヤード叢書(全二巻)に収められることになり
(生存中にこの栄誉に浴するのは異例中の異例)、そのための準備や配慮もあったの
だろう、久しぶりのいたって反時代的で挑発的な阿呆劇形式のこの小説は、一昨年秋
にまずイタリアで出版された。そのあと昨年春になってようやくフランスで刊行さ
れ、たちまち大評判になって何度も大増刷されて、新聞・雑誌の書評や特集でも派手
に扱われた。その邦訳が本書である。ただ、著者が一旦書き終えたこの作品を生前の
出版を意図して再度取りあげ、仕上げたのは二〇一三年以後にちがいない。なぜな
ら、この新作の冒頭から出てくるリュクサンブール美術館のシャガール展は、同年二
月二十一日から七月二十一日の期間だったからである。


 クンデラがみずからの作品の総決算を意図して執筆した「阿呆劇」とは、もともと
フランス十五-六世紀に流行した世俗演劇で、段だら縞の道化服をつけた阿呆たちが
登場し、不真面目で無責任な社会諷刺をさんざんおこなってみせる茶番狂言のことで
ある(その対極にあったのが徹頭徹尾真面目な〈教会〉の「聖史劇」)。では、なぜ
彼はあえて、たぶん最後になる作品を、小説らしいストーリーがほとんどなく、もっ
ぱら登場人物たちの無責任な雑談と放言に随時作者の奇抜で奔放な想像が入りまじ
る、軽快な「阿呆劇」にしたのだろうか。

 現代作家が自作の小説を「阿呆劇」と銘打つ前例として、アンドレ・ジッドが『狭
き門』などの真面目な「物語」とは対照的な、『法王庁の抜け穴』など意図的に戯
け、皮肉で、パロディー的な作品を「阿呆劇」として区別していたことを、むろんク
ンデラは知っていた。だが前例というなら、二十世紀後半の冷戦時代の苛酷な歴史と
二十一世紀初頭の「グローバル化=画一化」された社会風俗を快活で滑稽な戯画にし
てみせたこの作品は、第一次世界大戦の戦時体制と軍隊生活を徹底して喜劇に仕立て
た『兵士シュヴェイクの冒険』のヤロスラフ・ハシェクのことを思い出させる。この
チェコ文学の大先輩は、クンデラの文学的形成と感性に決定的な影響をあたえた作家
だからである。

 前例、影響云々はともかく、彼自身が常々真面目な意味や主張が不在の、遊戯的で
不真面目な小説を書くのを夢みていたことは、すでに第一評論集『小説の技法』(一
九八六年)第三部のなかで演劇のヴォードヴィル形式に基づく小説『別れのワルツ』
(一九七八年)について解説して、たとえば「人間はこの地上で生きるに値するのだ
ろうか?」、「地球を人間の牙から解放すべきではないか?」といったような、「問
いかけの極端な深刻さと形式の極端な軽さとを結びつけることが、私の長年の野心で
した。しかもこれは純粋に芸術的な野心ではありません。軽薄な形式と深刻な主題を
結びつけることで、私たちのドラマ(私たちのベッドで起こるドラマと同じく、〈歴
史〉の大舞台で演じられるドラマ)がその恐るべき無意味さのなかで暴かれるので
す」と述べていた通りである。

 さらに彼がフランス語で最初に書いた小説『緩やかさ』(一九九五年)の第二十六
章にも、作者が妻のヴェラに、「あなたはよく、いつか、真面目な言葉がひとつとし
てないような小説を書きたいと言っていたわね、『きみを喜ばせる大いなる愚行』と
かなんとかいって・・・あなたは真面目だったからこれまでは無事だったのよ。真面
目さをなくすと、あなたは狼たちのまえに丸裸で立つことになるわ」と警告させる、
暗示的な場面もあった。


『無意味の祝祭』のクンデラはおそらく、八十五歳を過ぎた今になって、やっとなん
の懸念もなく、かねてからの念願通り徹底的に不真面目になり、ユーモアの感覚を欠
いた「狼たち」(ラブレーが嫌悪してやまなかった「苦虫族」)、本書の作者の言い
方では「真実の下僕たち」)の大群のまえに丸裸で立ってみることが許されると思っ
たのだろう。だが、音楽で言うフーガの技法を存分に駆使したこの小説的笑劇が顰蹙
や敵意でなく、こんな讃辞によって迎えられたのはやや意外だったかもしれない。

「なんという本か! 読者を哄笑させると同時に喉を締めつけさせるという、二重の
意味にとれる、なんという言語か! クンデラはカーテンを引き裂き、あからさまに
戯けてみせる技倆をなにひとつ失っていない」(マルク・フュマロリ、《フィガロ・
リテレール》誌)

「人の意を迎える配慮、ましてや人を説得する義務などから解放されたクンデラは、
フランス語を明るく歌わせることで大いに楽しんでいる。これこそまさに笑いと忘却
の書だ」(ジェローム・ギャルサン、《ル・ヌヴェル・オプセルヴァトゥール》誌)

「登場人物たちは『みな上機嫌を求めている』が、クンデラもまた、まるで礼儀によ
うに、じぶんの上機嫌さを振りまいている。この時代がユーモアの感覚をなくしてし
まったとしたら、どうしようもない。『冗談』の作者はみずから楽しみつつ、読者に
知性の祝祭をもたらす。さらに高く飛ぶために軽さを装った小説だと言える」(ラ
ファエル・レリス、《ル・モンド》紙)


 フランスでの評判はざっと以上のようなものだったが、いずれにしろ一九二九年の
エイプリル・フールの日に、ハチェクの同国人としてチェコスロヴァキアのモラヴィ
ア地方ブルノで生まれ、七五年にフランスに亡命、八一年にフランスに帰化し、『冗
談』(一九六七年、邦訳岩波文庫二〇一四年刊)や『存在の耐えられない軽さ』(一
九八四年、邦訳河出書房新社二〇〇八年刊「池澤夏樹=個人編集世界文学全集I-03)
によって世界的な小説家になった作家の「最晩年のスタイル」としては、読み方に
よってかなり際どく厭世的に感じられるものの、このような軽妙な阿呆劇以外には考
えられなかったのかもしれない。

    二〇一五年一月

*   *   *   *   *   *  
ミラン・クンデラ 著 西永良成 訳『無意味の祝祭

ミラン・クンデラ 著 西永良成 訳『出会い

ミラン・クンデラ 著 西永良成 訳『存在の耐えられない軽さ
(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)

(初出:『かわくらメルマガ』vol.71 2015/4/3)