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2014年9月の記事一覧

皆様、「かわくら」メルマガのご購読をありがとうございます。
9月18日発売『1%の力』担当編集者です。
この本がどのようにして生を享けたのか。
この本の目指している地点はどこにあるのか。
この場をおかりして、その製作過程を振り返りながら、
担当編集者としての想いをお伝えします。

著者は、テレビや雑誌やCMでもお馴染み、
あたたかな笑顔とご立派なあご髭がトレードマーク、
長野諏訪中央病院の名誉院長・鎌田實先生です。
まずは鎌田先生の略歴をご紹介しましょう。

今から40年前、東京医科歯科大学をご卒業された直後に、
医師不足で困窮していた長野諏訪中央病院より招かれ東京より赴任。
周囲から「都落ち」「二度と東京に戻れなくなる」と反対されながらも、
「だからこそ進んで長野に赴いた」ことから、名医としての人生を始めます。
医師と患者の間にまだまだ隔たりがあった40年前の長野県で、
あくまでも「地域」の人々の生活の中にこそ「医療の真髄」があると信じ、
住民の生活の場に積極的に参加しながら「住民と共につくる医療」を実践。
減塩など独自の「健康づくり運動」を長年続けることで、
かつて脳卒中死亡率の高かった長野県を今では日本一の長寿県に変えた、
その立役者でもおられます。

早くも30代で院長に就任し、赤字だった長野諏訪中央病院の黒字化にも大成功。
「あたたかな医療」と「経営の黒字化」を同時に叶えました。
しかし、その相反する2つの理想を叶える日々の中で、
48歳の時、ある日突然、パニック発作を発症。
往診に行っても車からおりられなくなったり、深夜に突然目が覚めて動悸に苦しんだり、
眠れなくて落ち着かなくて不安が膨らみ、明け方までウロウロと歩きまわる日々。
発作の度に奥様の寝室に行き、奥様の隣にもぐりこみ抱きしめてもらって、
そのつらい時期をご夫婦で乗り越えられたそうです。

この奥様、カマタファンならよくご存じでしょう。
ご著書にて「サトさん」「さと子さん」「カマタ家のゴッドマザー」として
大切なシーンに頻繁にご登場されている、かの有名な奥様です。
そもそも奥様とは、学生結婚。医学部の学生で学生運動に夢中だった頃に、
周囲の大推薦と祝福を受けて、お二人は幸福な結婚生活を始められました。
すぐに一男一女に恵まれて、あたたかな家庭をつくりあげ、
今となっては「おしどり夫婦」としても名高いお二人。
鎌田先生の担当編集者ならほとんど誰もが、奥様にもお世話になっている始末。
打ち合わせにも地方講演にも、世界中をめぐる旅行にも、ほとんど奥様が同行されます。
奥様なくしては鎌田先生のご活躍はあり得ない、
そんな理想的なご夫婦像、家庭人としてのあり方までもが評価されて、
鎌田先生は2009年に「ベスト・ファーザーイエローリボン賞」を受賞されました。

と、ここまで書いてみると、まるで一点の曇りも挫折もないような、
成功者の順風満帆な人生のようですが......違います。
実は鎌田先生には、実の親を知らない、という生誕の秘密があるのです。
1歳の時、貧しい夫婦にもらわれて、育ちました。
父親はタクシーの運転手、母親は重い心臓病で入退院を繰り返している、
裸電球一つしかないような質素な家だったけれど、
あふれるほどの「心」がある一家で、とても幸せな幼少期を過ごされたそうです。
そのため、30代になるまで、育ての親を実の親だと信じ込んでいたといいます。
ある日、パスポートを取得する時に、初めて戸籍謄本を見るまでは!
その真実を知った時から、鎌田先生の人生は大きく変わります。

真実を知らなかったのは先生おひとりだけで、
奥様など周囲の方々はみんながその真実を知っていて、
先生のために「優しい嘘」をつき続けていたといいます。
先生は奥様と話し合い、「優しい嘘」にだまされ続ける事を決意します。
そして、育ての父親・岩次郎の名を何百年も世に残したい、との願いを込めて、
300年以上はもつといわれている頑丈な丸太ばかりを使い、
「岩次郎小屋」という看板をかけた大きな家を建てるのです。
東京でひとり暮らしをしていた晩年の父親・岩次郎を呼び寄せるためでした。
そして岩次郎の亡くなる日まで、3世代が一つ屋根の下、
笑顔のたえない日々を営んでいきます。
鎌田先生は、貧しい「にもかかわらず」自分を育ててくれたご両親の影響を受けて、
「誰かのために生きる」人生をご自分も歩んでみたいと切望するようになったのです。

しかし、100%の人生をいかにして「誰かのために生きる」べきか、
懊悩の日々が続きます。医師として家庭人として多忙極まりない生活の中で、
なかなか「誰かのために生きる」ことは、難しい。
そんな時に、ふとひらめいたそうです。「まず1%、誰かのために生きてみよう」と。
以降、鎌田先生は常に「1%」を意識して、生きてこられました。
すると、1%にはいろいろ不思議な力があることに気がつき始めたといいます。

......そんな鎌田先生のあたたかなヒストリーを伺っている時に、
「ならば、先生の人生の根幹にある1%の力についてご執筆ください」と
お願いしたのがこの本の始まりでした。

1%は誰かのために生きてほしい。
「1%なら」、心も体も動きだす。
「1%ずつ」、事態は好転する。
「1%だけ」視点を変えてみると、見えないものが見えてくる。
「あと1%」を積み重ねると、「101%」の結果にたどり着く。
みんなが「1%」生き方を変えるだけで、個人も社会も幸福になる。

「もう1%」を積み重ねている内に、この本はできあがりました。
「1%」には、小さいけれど、とてつもない力があります。
一人でも多くの方にその力を信じていただけることを祈っています。
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◎鎌田實『1%の力』 ●1000円(税別)

***刊行記念イベント開催***
・10/29 京王百貨店新宿店開店50周年&鎌田實さん『1%の力』刊行記念トークショー&サイン会
http://www.keibundo.co.jp/news/detail/1029501.html

(初出:『かわくらメルマガ』vol.55 編集担当者が語る、鎌田實『1%の力』ができるまで)
 この度、河出文庫から続けて刊行した、エレナ・ポーター『スウ姉さん』、ジー
ン・ポーター『リンバロストの乙女(上下)』、バロネス・オルツィ『べにはこべ
は、「赤毛のアン」を日本に紹介した名翻訳家、村岡花子による翻訳小説です。
 
 のっけから文句を垂れて恐縮ですが、私は放映中のドラマ『花子とアン』に対し、
少なからず不満を抱いています。もちろん、あのドラマのヒロイン「花(子)」は、
あくまでも実在の村岡花子を「モデルにした」という名目なわけで、事実と違う! 
とのクレームは野暮だと重々理解しています。だが。童話作家やラジオのおばさんと
しての活躍にあれほど時間を割くのであれば、村岡花子が抱いていた翻訳家としての
スピリットも、もう少し描いて欲しかった。

 というのも今回、長らく絶版だった村岡訳作品の文庫化を、様々な世代の多くの読
者の皆さまが喜んでくださいました。名作の「新訳」が話題となる昨今において、村
岡訳がなぜこれほど愛されるのか考えたとき、それは彼女が持っていた確かな英語
力、日本語の豊富な語彙と文体リズム等々、だけが理由ではない気がするのです。お
そらく、その魅力は、明治26年に生まれて昭和43年に亡くなるまで、村岡花子が持ち
続けた翻訳への情熱や使命感とは切り離して語れないのではないか。

 本人が書いた各作品のあとがきやエッセイ、お孫さんによる評伝等によれば、実際
の村岡花子は、もともと飛び抜けて聡明な文学少女で、十代で学んだ東洋英和の膨大
な蔵書も読破するほどの語学力の持ち主だったそうです。その彼女が、二十歳過ぎで
通っていた夏期講習の間に夢中となったのが、ジーン・ポーター『リンバロストの乙
女』の原書でした。物語の主人公は、実の母に阻まれながらも、虫の収集で学費を稼
ぎ、勉学に励む少女エルノラ。この物語に共鳴した村岡花子は、自分のつとめは、こ
のような良質な家庭文学を日本のティーン・エイジャーに届けることだと決意しま
す。
 その少し前、村岡花子は、彼女が生涯もっとも敬愛を払った年上の友人、片山廣子
と出合います。アイルランド文学者にして歌人であった片山は、村岡を近代文学の世
界へ導いた師でもありました。その片山から薦められたうちの一冊が、バロネス・オ
ルツィ『べにはこべ』の原書。フランス革命を舞台に、秘密結社や美女が活躍する情
熱的な物語(その実、倦怠期に陥った一組の夫婦の切実な物語でもあります)。文字
通り一晩で読んでしまうほど、魅了された村岡花子は、翻訳への決意を燃やします。
 そして、その約15年後、関東大震災での壊滅的な被災や、たったひとりの愛息の死
を乗り越えるべく、村岡花子が夫と立ち上げた機関誌「家庭」で連載をはじめたの
が、エレナ・ポーター『スウ姉さん』。父親の会社が倒産し、恋人には裏切られ、音
楽家になるという自分の夢も断たれたスウ姉さんが、それでもユーモアを忘れず、力
強く生きていく物語。Sister Sue が原題のこの本が、1932年はじめて単行本として
世に出た際の邦題は『姉は闘う』でした。
 もちろん、翻訳は原書あってこそ。しかし、それぞれの時、村岡花子が作品の紹介
に込めた強い思いは訳文に生き続けているに違いなく、それはやはり村岡花子にしか
創り出せなかった作品群なのだと思う。あとはどうぞ、これを機会に、実際に村岡訳
を味わってみてください。

 と考えてみると、このように村岡花子が人生の分岐点で出合った大切な作品群を、
今回改めて世に出せたのは、ドラマの盛り上がりのお陰だったりもして、その点とて
も感謝しているのでした。

                            編集部・松尾亜紀子

【「花子とアン」関連書籍】
http://r34.smp.ne.jp/u/No/1218123/idywEffdgfi8_620/218123_140910001.html

(初出:『かわくらメルマガ』vol.54 村岡花子の翻訳はなぜ世代を超えて愛されるのか)